淀城
所在地 | 京都府京都市伏見区淀本町 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 松平定綱・稲葉正知 |
遺構 | 石垣・堀 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | @2002年11月23日 |
A2013年2月3日 | |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
妙教寺境内にある「淀古城址」の碑
淀古城跡(妙教寺)
〜淀殿の淀城は淀城跡から北に約500mにある妙教寺
(伏見区納所北城堀)辺りに存在した〜
内堀(本丸南側)
本丸跡西端に建つ城址碑
本丸北西隅の櫓台
本丸南側石垣群
本丸跡
天守虎口
〜施錠され内部へは立入りできない〜
天守台への石段(上から)
徳川2代将軍秀忠は、元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工した。翌寛永3年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。
寛永10年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保8年(1723)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏10万2000石の居城であった。
江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし『淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると』のうたで名高い水車は直径8mもあり城の西南と北の2ヵ所に取り付けられていた。
淀城とその城下町の盛観は延享5年(1748)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。
昭和62年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは4隅に櫓を持つ白亜5層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦6年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。
なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約500mの納所にあったと推定されている。
<現地案内板より>
淀城
天守台への石段
天守台石垣と城址碑
天守台
〜現在城跡は城跡公園となっている〜