山中城

INDEX

豊臣方で戦死した一柳直末の墓(宗閑寺)

宗閑寺(三ノ丸跡)境内にある山中城将の墓
〜城主松田康長、副将間宮康俊らが眠る〜

          本丸と北ノ丸を結ぶ架橋
〜橋の向こうが北ノ丸で、橋の下には空堀が通っている〜

本丸跡

本丸西橋(本丸と二ノ丸の間に架かる橋)

二ノ丸跡

           二ノ丸(北条丸)跡
〜山中城最大の曲輪であるが平地ではなく傾斜がある〜

西ノ丸見張台

西ノ丸見張台から西ノ丸西櫓跡を望む

               西ノ丸跡
〜西ノ丸は3400uの広大な面積をもつ曲輪で、山中城の
西方防備の拠点である〜

 所在地  静岡県三島市山中新田
 形式  山城
 主な城主  松田康長
 遺構  曲輪・空堀・土塁・池
 指定・選定  国指定史跡、日本100名城
 訪城年月日  2014年5月28日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  

      三の丸北側にある「田尻の池」
〜馬の飲料水として使われたと考えられている〜

すり鉢曲輪

駐車場にある案内板

  山中城跡は、文献によると、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558〜1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。
  箱根山西麓の標高580mに位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18年(1590)3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に1日で落城したと伝えられている。
  三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和48年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱崎出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻ノ池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。
  出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお三ノ丸跡の宗閑寺には、岱崎出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。
                                                      
                    <現地案内板より>

山中城

本丸下にある兵糧庫・弾薬庫跡

               北ノ丸跡
〜天守櫓に次ぐ高所にある広大な(1920u)曲輪である〜

本丸北側にある空堀

               天守櫓跡
〜山中城の最高所(標高586m)にあり、物見の櫓が建って
いたと考えられている〜

                天守台

本丸跡

西ノ丸と二ノ丸の間にある元西櫓跡

西ノ丸虎口

西ノ丸障子堀

西ノ丸障子堀

三ノ丸堀

一ノ堀

一ノ堀(畝堀)

           岱崎(だいさき)出丸
〜岱崎という地名からこの名が付く。小田原征伐では副将
間宮康俊がこの地を守り、壮絶な戦死を遂げた〜

出丸御馬場堀

御馬場曲輪土塁

御馬場曲輪に建つ城址碑

御馬場曲輪

 概説

西ノ丸遠望

西ノ丸から元西櫓跡を望む

西ノ丸畝堀

       三の丸北側にある「箱井戸」と
〜城兵の飲料水として使われたと考えられている〜