な か い り
や ま べ
山家城(中入城)
所在地 | 長野県松本市入山辺 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 山家氏 |
遺構 | 曲輪・石垣・堀切・竪堀・土塁 |
指定・選定 | 県指定史跡 |
訪城年月日 | 2023年5月11日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可 |
主郭から背後の堀切群を望む
所々には郭がある
連続堀切
ここが登城口といった感があるが、この石垣は
城の遺構ではない。そのまま進む。
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登山道
徳運寺の東南にあるバス停 「福祉ひろば前」 からも城跡に
至る道がある
竪堀
主郭東側の虎口
主郭には小笠原氏を祀る祠が建つ
秋葉神社
~主郭から10分弱で到達~
徳運寺説明板(拡大可)
秋葉神社
秋葉神社
主郭背後の大堀切
~ここから五重の連続堀切が現れる~
主郭奥の土塁
主郭東側の石垣
主郭東側の石垣
主郭
~東西約20m、南北約22mと大して広くはない~
主郭直下に残る石垣
主郭下の腰郭
山道を10分余り登ると堀切が現れる
山麓に建つ徳運寺
山家城
山家城遠望
~山麓の徳運寺裏に登山口がある~
山家城は入山辺上手町の背後の山腹にあり、築城時期は不明だが、城主は中世山家郷を支配した山家氏と伝えられる。
山家氏は神為頼(諏訪氏)の子孫で、元弘元年(1331)に徳雲寺を創建しており、山家郷の地頭を相伝していたとされる。文明12年(1480)
に府中の小笠原長朝に攻められ、その後の戦いで滅びたか敗走した。
その後、山家城には永正2年(1505)頃小笠原氏の同流である折野薩摩守昌治(折野山家氏)が播州から入城し、天文19年(1550)
武田信玄の攻撃によって林大城が落ちた際に自落した。
山家城は、秋葉神社のある部分および西側のものが古く、三方をかこまれた中央の主郭のある部分が新しい。この主郭は東西約20メートル、
南北約22メートルで周囲の石垣も高く積まれており、背後の堀切も大変深く、戦国最末期の松本平の石垣技術の到達点を示している。
長野県を代表する山城として、林大城と小城、埴原城、桐原城とともに、長野県史跡に指定されている。
<主郭案内板より>
「山家城跡入口」 と書かれた標柱
ここからは連続して堀切が現れる
バス停 「福祉ひろば前」 から約500m登るとこの場所で行き
止まりとなる。フェンスの向こうには登山道があり、徳運寺裏
から登るよりも城跡までの距離は近い。
さらに奥にある秋葉神社を目指す(左手を登る)
秋葉神社背後の堀切の奥にある郭
秋葉神社背後郭の土塁
秋葉神社背後の堀切
堀切
堀切
主郭東側の石垣
主郭
主郭
主郭下の腰郭
主郭下の腰郭
堀切
堀切
所々には郭がある
堀切は竪堀となって山裾へ落ちている
堀切を過ぎると郭がある
次の堀切と土橋
堀切と土橋
神社を通り過ぎて山道を登る
白山大権現の前を通ってすぐ上にある神社へ
白山大権現
白山大権現
程なくすると白山大権現が現れる
フェンスは開閉できるのでそのまま進む
フェンス沿いの道から見える眺望
フェンス沿いの道に出ればOK。あとはこの道を登って行く。
墓地の脇を通って登山口へ
寺の脇から登山口へ
フェンスの中に城跡の説明板がある。が、残念ながら
登山道通行止めの告知文が貼られていた(拡大可)
城跡説明板(拡大可)
主郭下にある城跡の説明板(拡大可)
秋葉神社
~山家城の 「奥の城」 または 「詰めの郭」 とも言える場所
であるが、元々はここが主郭であったと考えられている~
秋葉神社背後郭の土塁
堀切は竪堀となって山裾へ落ちていく
主郭東側の石垣
主郭東側の石垣
白山大権現の上にある神社
登山口
~墓地の奥に登山口があるが、道が不明瞭で表示物もなく、
非常にわかりにくい~
徳運寺のフジ
~地元ではフジの名所として知られる~