和歌山城
所在地 | 和歌山県和歌山市一番丁 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 浅野幸長・徳川頼宣 |
遺構 | 岡口門・追廻門・塀・石垣・堀・庭園 |
指定・選定 | 国指定史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | @2006年5月1日 |
A2013年1月12日 | |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
西之丸庭園(名勝)
山吹渓の野面積み石垣
追廻門(現存)
〜付近に馬術の稽古場があり、馬を追い回したことから
追廻門と呼ばれる〜
一中門跡
天守一の門跡
本丸御殿跡
〜初代藩主徳川頼宣と14代藩主茂承(もちつぐ)がここに
住んでいた。現在は給水場になっており立入りができない〜
天守と連結する御台所
天守閣
天守閣
〜昭和20年に空襲で焼失したが、昭和33年に再建された〜
二の丸庭園にある縄張図
天正13年(1585)、豊臣秀長は兄豊臣秀吉の命をうけて和歌山城の築城にとりかかった。しかし秀長は和歌山城の完成を見ずに大和郡山にあり、その後和歌山の地へ戻ることはなかった。翌天正14年(1586)に、秀長の家臣である桑山重晴が城代として3万石を領し和歌山城に入城した。桑山氏は14年間の在城期間に和歌山城の本丸部分を中心に築城を進めた。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで軍功のあった浅野幸長が37万6千石を領して和歌山城の城主となり、桑山氏は大和布施に移封された。浅野氏は19年間の在任中に、二の丸部分を整備させたり、一橋門を大手にするなどその後の基礎となる築城工事を次々に行った。
元和5年(1619)、浅野氏は安芸国広島へ移封され、徳川家康の第十男徳川頼宣が55万5千石を領して入城した。以後和歌山城は、御三家紀伊徳川家の居城となり「南海の鎮」として、幕府の西国支配の拠点という新たな役割を担うことになる。頼宣の入城の際には銀2千貫が支給され、入城直後から和歌山城の大規模な整備工事や城下町の拡張整備が実施された。これらの政策はその後250年間続く和歌山の繁栄の基礎となった。
<和歌山城パンフレットより>
和歌山城
県立近代美術館前に建つ徳川吉宗の像
御橋廊下内部
鶴の渓
〜浅野時代の庭園跡で、ここで鶴を飼っていたという〜
不明門(あかずのもん)跡
〜緊急時のみ開かれ、普段は閉じられたままであったという〜
岡口門(現存、重文)
大手門と一の橋(昭和58年復元)
北堀
二の丸庭園より大天守・小天守を望む
二の丸庭園(二の丸跡)
〜二の丸には二の丸御殿が建てられ、初代頼宣と14代茂承
以外の藩主はここに住んでいた〜
天守一の門石垣
天守一の門周辺の石垣群
天守曲輪に建つ二の門櫓(左)と天守二の門(右)
〜昭和33年に天守とともに再建された〜
天守と連結する乾櫓
天守最上階から二の門櫓(左上)・乾櫓(右上) を見下ろす
天守最上階から和歌山市街を望む
天守閣
二の丸と西の丸の間に架かる御橋廊下
西之丸庭園
岡中門跡と高石垣