わ か さ
若桜鬼ヶ城
八角展望台を過ぎた所にある縄張図
所在地 | 鳥取県八頭郡若桜町若桜 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 矢部氏・木下重堅・山崎家盛 |
遺構 | 曲輪・石垣・土塁・堀切 |
指定・選定 | 国指定史跡・続日本100名城 |
訪城年月日 | 2013年5月24日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(ほぼ山頂の馬場跡まで) |
搦手から西方に下った所にある「六角石垣」
天守閣跡
本丸北側の石垣
本丸跡
本丸虎口
大手門跡
三の丸(大手側)跡からの眺望
三の丸(大手側)跡
二の丸跡
二の丸跡
ホウヅキ段石垣と犬走り
ホウヅキ段の石垣
登城口
若桜鬼ヶ城跡は播磨、但馬へつながる交通の要衝にある。そのため、戦国時代において毛利対尼子、毛利対織田などによる争奪戦が繰り広げられた。
築城時期は不明だが、延徳元年(1489)には「矢部館若狭」の記述があり、矢部氏によってこの頃には城が築かれていた可能性が考えられる。一時山中鹿之助による尼子氏再興戦の舞台ともなった。その後、羽柴秀吉による鳥取城攻めの際には織田方の拠点として機能し、天正9年(1581)に鳥取城が落城した後は秀吉の武将木下重堅、関ヶ原の戦後の慶長6年(1601)には山崎家盛が入城している。元和3年
(1617)に池田光政が因伯2国を領す鳥取城主となると、一国一城令により廃城となった。
城郭の遺構は大きく二群に分けられる。山頂部から南北に延びる尾根の中腹から先端部にかけては掘切、竪堀が見られ、小規模な曲輪群が構築されている。また山頂付近には、この付近でとれる石材を用いた石垣によって、虎口や天守台等が築かれている。その構造から前者は戦国時代の山城の遺構で、後者は近世初頭になって新たな築城技術で構築されたと考えられる。
本丸の西側などかなりの石垣が崩れているが、これは廃城の際に意図的に壊されたものである。中世から近世にかけて城郭構造の変遷を窺うことのできる城として学術的な価値が高いだけでなく、そうした破城の状況を今に留めているものとして重要である。
<現地案内板より>
若桜鬼ヶ城
天守跡からの眺望
天守跡から見たホウヅキ段
天守石垣
本丸西側の石垣
〜かなり崩れている〜
三の丸(搦手側)石垣
城跡遠望(鶴尾山)
三の丸(搦手側)石垣
三の丸(搦手側)石垣
馬場跡
〜ここまで車で進入できる〜