う す き
臼杵城
大手登城道
所在地 | 大分県臼杵市大字臼杵 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 大友宗麟・稲葉氏 |
遺構 | 畳櫓・卯寅口門脇櫓・曲輪・石垣・堀・井戸 |
指定・選定 | 県指定史跡・続日本100名城 |
訪城年月日 | 2019年4月12日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(今橋口より) |
大門櫓(平成13年復元)
〜二の丸への入口である〜
本丸跡からは臼杵湾が見える
古橋口(大手口)から城跡を望む
臼杵城跡縄張図
往時は城の周囲は海に囲まれていたが、明治20年(1887)
に埋め立てられ、今では完全に宅地化してしまっている。
時鐘櫓跡
岸壁の上に建つ畳櫓
臼杵城
臼杵城は弘治2年(1556)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生島は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。
大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。
その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓、畳櫓以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。現在は臼杵の歴史のシン
ボルとして、皆さんに親しまれています。
<現地案内板より>
天守櫓石垣
天守櫓跡
〜福原直高が城主であった時代に建造されたと考えられ、
構造は3層4重(外観3層、内部4階)であった〜
本丸と二の丸の間の空堀(北側)
本丸と二の丸の間の空堀(南側)
鉄門櫓跡(右)と武具櫓跡(左)
本丸虎口(鉄門跡)
本丸(本丸御殿)跡
二の丸儀太夫前櫓跡
二の丸着見櫓下の石垣
二の丸着見櫓跡
二の丸会所櫓跡
二の丸井楼櫓跡
畳櫓(現存)
古橋口の石垣
二の丸(二の丸御殿)跡
古橋口の石垣と水堀
〜石垣上には亭櫓が建っていた〜
にゅうじま
フランキ砲(レプリカ)
〜天正4年(1576)、ポルトガル副王より大友宗麟に贈られた
大砲で、宗麟はこれを国崩(くにくずし)と名付けた。天正14年
(1586)には城に攻め寄せた島津軍の撃退に成功している〜
大友宗麟の碑(二の丸跡)