う え し
羽衣石城
所在地 | 鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 南条宗勝・元続 |
遺構 | 曲輪・石垣・土塁・堀切・井戸 |
指定・選定 | 県指定史跡 |
訪城年月日 | 2013年5月24日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(中腹の駐車場まで) |
三の丸跡
大手道(20分コース)途中にある「天然の塁壁」
搦手道途中にある羽衣石(はごろもいわ)
搦手道から少し外れた所にある「お茶の水井戸」
山腹の駐車場までは車で上がり、ここ(搦手道)から登山開始
二の丸跡
本丸跡にある城主南条氏の累代碑
展望台から模擬天守を見上げる
羽衣石城は東伯耆の国人・南条氏の居城として貞治5年(1366年)から慶長5年(1600)まで約234年間使用された城であるが、城主の南条氏をはじめ羽衣石に関する記録は「羽衣石南條記」「伯耆民談記」などの少数のものしか伝えられていない。また、これらの諸本の成立年代は南条氏が滅んだ後、百数十年たった江戸時代の中頃のものであり、どこまで事実を伝えているかは疑問であるが南条氏を知る1つの手掛かりである。さて、これらの諸本によると、南条氏の始祖は南条伯耆守貞宗とし、この貞宗は塩冶高貞の二男で高貞が滅亡した時越前国南条郡に逃れた。貞宗は成長後、将軍足利尊氏・義詮の父子に仕えて功績をあげ義詮より伯耆守に任ぜられて、貞治5年(1366年)に羽衣石城を築いたという。
この南条氏の活動が盛んになるのは応仁の乱以後である。明徳の乱(1391年)、応仁の乱(1467年〜1477年)の為に伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて南条氏は在地支配の拡大を目ざして独立領主化をはかり、第8代南条宗勝の時には守護山名澄之の権力をうわまわる武力を保持するに至った。
大永4年(1524年)隣国出雲の尼子経久は伯耆国へ本格的な侵攻を行ない西伯耆の尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城並びに東伯耆の八橋城、堤城、岩倉城、河口城、打吹城の諸城を次々に攻略し同年5月中頃までにはこれらの諸城は降伏してしまった。南条氏の羽衣石城も落城し城主の南条宗勝は因幡へ逃亡した。これを「大永の五月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には尼子経久の子国久が入城した。
しかし尼子氏の伯耆支配も長く続かず、毛利氏の台頭とともに永禄年間(1558年〜1569年)には支配権を失った。南条宗勝は永禄5年
(1562年)に毛利氏の援助により羽衣石城を回復している。以後伯耆国は毛利氏の支配下に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。
天正7年(1579年)織田氏の山陰進出が本格的になると南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。毛利氏は羽衣石城を攻撃し、
元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などによりこれに対処したが天正10年(1582年)羽柴秀吉の撤兵とともに落城し城主元続は京都へ逃走した。
天正13年(1585年)秀吉と毛利氏との間で領土の確定が行なわれ、東伯耆八橋城を残して秀吉が支配するところとなり再び南条氏に与えられた。しかし慶長5年(1600年)におこった関ヶ原の役で西軍に属した南条元忠は役後改易され、羽衣石城は廃城となった。
<現地案内板より>
羽衣石城
本丸跡からの眺望(遠くに日本海が見える)
帯曲輪にある展望台
“羽衣伝説” の説明板
羽衣石(はごろもいわ)
「お茶の水井戸」の説明板
搦手道(15分コース)途中にある石垣
登山口駐車場にある案内図
本丸跡にある城址碑
本丸跡に建つ模擬天守
〜中には入れない〜
本丸跡(奥に模擬天守)
虎口(ここから本丸へ)