う   だ

宇陀松山城

 所在地  奈良県宇陀市大宇陀春日
 形式  山城
 主な城主  秋山氏・福島孝治
 遺構  西口関門・曲輪・石垣・空堀
 指定・選定  国指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日  2017年11月10日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B  D E
 車での登城  不可

枡形虎口

天守郭からの眺望

慶恩寺(春日神社北方)前に建つ「秋山城主之碑」

         西口関門(国指定史跡)
〜江戸初期の建築で、現存する唯一の建造物である〜

               大御殿跡
〜本丸に次ぐ広い郭と思われる。説明板がないため、大御殿
に関する詳細は不明である〜

天守郭東側にある「大御殿」跡

本丸跡(天守郭より)

「御加番郭」下の空堀

                登城口
〜春日門跡を過ぎ、春日神社の手前から城跡への登城道が
付いている。ここから山頂の城跡までは徒歩10分である〜

宇陀松山城

INDEX

天守郭

            最高所の天守郭
〜東西40m、南北12〜20mの広さで、天守に相当する
建物が建っていた〜

本丸西側にある「御加番郭」

雀門跡を過ぎ大手道を進む

  宇陀松山城は大和国宇陀郡の国人秋山氏によって築かれた。築城時期は定かではないが、南北朝時代にはすでに存在していたと考えられている。また、秋山氏の居城であった頃は秋山城と呼ばれていた。
  天正13年(1585)、豊臣秀長が大和郡山に入部すると、城主秋山直国は伊賀へ追放された。以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種と城主が替わり、慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の功によって福島正則の弟孝治が入城した。孝治は城の改修と城下町の整備を行い、城名もこの頃に松山城と改称された。
  元和元年(1615)、孝治は大坂夏の陣で豊臣方に内通したとして改易され、松山城も廃城となった。
  その後、織田信長の次男信雄が入封し、宇陀松山藩として存続したが、城は築かれず、藩政は山下の陣屋にて行われた。
  元禄8年(1695)、藩の内紛によって織田氏は丹波柏原へ移封となり、宇陀松山藩は廃藩となった。

山頂近くの切通し状の登山道

宇陀松山城遠望(古城山)

大門跡(南東虎口)

大御殿北側にある「御加番郭」

天守郭と大御殿の間にある空堀

天守郭の石垣

天守郭の石垣

天守郭虎口

天守郭虎口

枡形虎口

枡形虎口の石垣

雀門跡(南西虎口)

             山麓の春日門跡
〜現在も櫓台の石垣が残る。ここを通って城跡へ登城する〜
 概説

         山頂の本丸跡(奥部は天守郭)
〜東西50m、南北45mの広さをもつ城内最大の郭である。
発掘調査によって、5棟から成る本丸御殿が建ち、本丸周囲
には多聞櫓が連なっていたことがわかっている〜