津和野城
所在地 | 島根県鹿足郡津和野町後田 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 吉見正頼・坂崎直盛・亀井政矩 |
遺構 | 曲輪・石垣・堀切・井戸・櫓 |
指定・選定 | 国指定史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | 2014年5月9日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可(リフトあり) |
嘉楽園(藩主屋敷の庭園跡)
津和野藩庁と藩主亀井氏の屋敷があった県立津和野高校
のグランド
津和野城跡遠景
三十間台からの眺望
〜正面の高い山が青野山、眼下の川は津和野川〜
人質郭
〜三十間台の南側下にあり、三十間台からしか行き来できない
造りになっている〜
三十間台
〜本丸に相当する曲輪で、津和野城の最高所にある〜
太鼓丸跡
海老櫓跡
万代の池の中をのぞきこむと綺麗な水が!
「万代(よろづよ)の池」と呼ばれる井戸
出丸北側にある堀切(吉見氏時代のもの)
山麓のリフト乗り場
〜山頂まで5分で上がれる〜
山麓のリフト乗り場にある絵図
出丸跡
〜出丸は坂崎直盛が入城した際に築かれ、築城の指揮を
直盛の弟で家老浮田織部が執ったことから別名「織部丸」
ともいわれている〜
天守台石垣
出丸石垣
出丸虎口
津和野城の築城は、弘安5年(1282)能登より入部した吉見頼行によって永仁3年(1295)頃よりはじめられ、その子頼直の代の正中元年(1324)まで続いた。小規模な曲輪を連ねた典型的な中世山城は、城山山系の南端にある中荒城跡をはじめとし、南北出丸から延びる支尾根に沿って無数の郭群が伸び、とりわけ天文23年(1554)の陶氏との戦いに際し、竪堀りなどの機能が築造されたと考えられている。
慶長6年(1601)、関ヶ原の戦いの行賞で入城した坂崎直盛は、津和野の町並みを見下ろす比高200メートルの城山山頂を削平して壮大な石垣を設け、3重の天守を有する近世山城へと大改装した。
元和3年(1617)、因幡鹿野(現在の鳥取県鳥取市鹿野町)から亀井家2代政矩が津和野初代藩主として入城した。亀井氏は津和野藩邸を殿町にあった居館を城の麓に整備するとともに、外壕を整備するなど現在まで残る城下町の形を完成させた。
明治4年(1871)、藩主亀井茲監は全国の各藩に先がけて廃藩を上申し、津和野藩知事を辞職、浜田県へ合併した。津和野城は津和野の商人三上喜左衛門に払い下げることが決まり、明治7年(1874)解体に着手された。その後藩邸の一部が「嘉楽園」として整備されるとともに、町民らによって藩主亀井茲監の銅像、国学者の大国隆正、福羽美静日本紡績初代社長山辺丈夫らの石碑が建設された。現在は公園として町民の憩いの場として親しまれている。
石垣を伴う近世山城部は昭和17年(1942)国指定史跡となり、その後の調査によって中世山城部や藩邸跡(建物2棟を含む)の価値が認められ順次追加指定が行われている。
<現地案内板より>
津和野城
永明寺にある坂崎直盛の墓
永明寺(ようめいじ、津和野町後田ロ)
〜応永27年(1420)に津和野城主吉見頼弘によって
創建された。吉見、坂崎、亀井氏といった歴代津和野
城主の菩提寺である〜
三の丸(西側)にある西門跡
〜吉見氏時代は大手口、坂崎氏以降は搦手口であった〜
三の丸(西側)から天守台方向を望む
三の丸(西側)石垣
三の丸跡(西側)
〜馬をつなぎとめておく馬立や台所、海老櫓などがあった〜
三の丸(西側)の三段櫓石垣
三十間台虎口
天守台(実際には二の丸)
〜坂崎直盛は二の丸に三重の天守を建造したが、貞享3年
(1686)落雷で焼失し、以後再建されることはなかった〜
天守台石垣
出丸跡
馬場先櫓(現存)
〜津和野藩邸表門の左方の角地にあった隅櫓で、南西に
馬場があったのでこの名が付けられた〜
物見櫓(現存)
〜藩主が祭礼等の催し物を見物した建物で、別の地にあった
ものをこの地に移築した〜
三の丸(南側)にある南門跡
三の丸跡(南側)
人質郭の高石垣
天守台下にある中心部の縄張図