つ の む れ

角牟礼城

 所在地  大分県玖珠郡玖珠町森(角埋山)
 形式  山城
 主な城主  玖珠郡衆(森氏他)・毛利高政
 遺構  曲輪・石垣・竪堀・土塁・池
 指定・選定  国指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日   2019年4月12日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  可(三の丸跡まで)

枡形門跡(二の丸西曲輪北側)

本丸下展望所(角埋神社東側)から見た眺望

井戸曲輪にある岩清水(左)と馬洗池(右)

本丸土塁

本丸跡

二の丸西曲輪石垣

二の丸跡

井戸曲輪下の石垣

三の丸跡から本丸跡へは徒歩約8分である

三の丸駐車場(車道終点)

  角牟礼城跡は標高577メートルで、古くから石垣のある山城として知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切り立った険しい岸壁で囲まれている。
  角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明7年(1475)の志賀親家文書である。その後、天文2年(1532)や翌3年には「角牟礼新掘之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。
天正14、15年(1585、86)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固な城として有名でもある。
  文禄2年には(1593)豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。慶長元年(1596)からは毛利高政が日田・玖珠郡2万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従って、この城跡は文禄3年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。
  そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預り地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。しかし、来島は1万4千石の小大名であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、山城は「正保の絵図」
(1644)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。
  平成5年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、また二の丸には礎石建物が発見されている。2つの門には瓦が葺かれていたと考えられている。
                                                                         <現地案内板より>

枡形門の石垣

大手門跡

本丸跡

角牟礼城

INDEX

          本丸下にある角埋神社
〜源為朝を祀っている。為朝は九州に追放された後、豊後国
に住み、この角埋に拠っていたとの伝説がある〜

本丸隅櫓跡

二の丸西門跡

二の丸西曲輪石垣

二の丸西曲輪

岩清水

井戸曲輪跡

井戸曲輪下の石垣

井戸曲輪下の石垣

竪堀(三の丸付近)

三の丸石垣

三の丸石垣

三の丸跡

三の丸石垣

角牟礼城跡は角埋山(つのむれやま)の山頂にある。山麓
(玖珠町太田362付近)から車道が通っており、ほぼ山頂の
三の丸跡まで車で行くことができる。

 概説

二の丸西曲輪

本丸虎口

本丸帯曲輪

井戸曲輪下から東へ延びる石垣