栃尾城
所在地 | 新潟県長岡市栃尾町 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 本庄実乃(慶秀)・秀綱 |
遺構 | 曲輪・石垣・土塁・空堀・土橋 |
指定・選定 | 県指定史跡 |
訪城年月日 | 2021年4月11日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(山腹の搦手駐車場まで) |
「中の丸跡」の標柱
〜矢印方向の崖上が中の丸跡であるが、道がないので
二の丸石動神社裏から行く〜
搦手口(山腹駐車場)
〜ここから本丸跡までは徒歩7分程度である。北東麓の諏訪
神社裏にも登山口(三光口)があり、そちらが大手道になる〜
登山口
〜城跡北側(栃尾山田町)から林道に入り、山腹まで車で
上がって行ける〜
二の丸跡
二の丸跡
本丸跡
〜本丸は南北に細長く、南側以外の三方が絶壁になっている。広さもさほどなく、本丸というよりは物見台であった可能性が高い〜
栃尾城は、南北朝時代の正平年間に、下野の将芳賀禅可が下越後の守護として一時ここに寄り、当山を縄張りし要害堅固な山城として
築いたといわれ、室町時代には、長尾氏の被官本庄氏歴代の持城となった。
越後の雄上杉謙信は、少壮時代(14才〜19才)栃尾に居て、端麟寺門察和尚の薫陶を受けるとともに城主本庄慶秀の補翼により中越の
動揺を静めて勇名を馳せた。
謙信没後の御館の乱(天正6年〜8年)の際、城主本庄秀綱は上杉景虎を支持して上杉景勝と戦って滅びたが、城は引続き上杉氏の番城
として景勝麾下の諸将が交替で在城した。
慶長3年上杉氏の会津国替の後は、新領主堀秀治の将神子田長門守(八郎右エ門)が在城したが、慶長15年堀氏の改易に伴い廃城と
なった。
けわしい自然を利用して空壕で仕切った本丸以下の諸曲輪を一列に並べ、東側中腹に広大な千人溜を備えるという雄渾な縄張りや、本丸
を固めた鉢巻石垣、山腹まで堀通した大規模な縦空壕など戦国時代の山城遺構の好例である。
なお、この城は籠城用の要害であって、城主の平生の政庁居宅は南麓の大野町地内の字館屋敷にあった。
<本丸跡説明板より>
びわ丸西側の空堀
栃尾城
上杉謙信の銅像(城跡東方の秋葉公園内)
〜逆光で顔がはっきり見えない。晴れの日は午後から逆光に
なるので、朝のうちに行くとよい〜
狼煙台詰郭
空堀を渡る土橋
中の丸跡
〜かなり藪化しているが、曲輪の形状は確認できる〜
二の丸跡
二の丸跡
二の丸虎口
本丸東側の絶壁
本丸跡
本丸跡からの絶景
〜栃尾の街が一望でき、はるか向こうには粟ヶ岳などの峰々が見渡せる〜
本丸跡
本丸虎口
本丸と二の丸の分岐点
中の丸(左上)と、びわ丸(右上)の間の堀切
本丸跡から見下ろした巨大な竪堀状の地形
訪城日はサクラが見頃であった(本丸〜二の丸間の大手道)
二の丸跡にある石動神社奥社