鳥羽城

 所在地  三重県鳥羽市鳥羽
 形式  平山城
 主な城主  九鬼嘉隆・九鬼守隆・内藤氏・稲垣氏
 遺構  曲輪・石垣
 指定・選定  県指定史跡
 訪城年月日  2012年11月4日
 満足度  A B C  E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  

大手水門跡(鳥羽水族館前)

     本丸跡(旧鳥羽小学校運動場)
〜この場所に3層の天守と本丸御殿があった〜

本丸西側の石垣

本丸北側虎口の石垣

城山公園となっている二の丸跡

三の丸背後の七段石垣

       三の丸跡
〜ここだけが整備されている〜

山麓にある「九鬼水軍の海城」の看板

鳥羽城跡周辺地図

  志摩国を平定した九鬼嘉隆が、天正14年(1586)磯部の恵利原にある「天の岩戸」に参籠し、愛染明王の神託を得て、当時、前島(観音山とも)呼ばれ、三方を海に囲まれた要害を城地と定め、大阪城築城用に三河国幡豆から海上輸送した石材の一部をもって石垣を築き、約
8ヵ年を要して、文禄3年(1594)8月に完成したという。
  慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で、嘉隆は石田三成の西軍、子の守隆は徳川家康の東軍について戦った。その守隆に鳥羽城攻撃の命が下ったが、嘉隆は鳥羽城を灰じんに帰すことを避け、戦場を岩倉の田城に移して戦った。東軍に敗れたことを知った嘉隆は慶長5年10月12日、答志島の洞泉庵で切腹した。
  鳥羽城は寛永9年(1631)守隆が没するまで九鬼水軍の本拠であったが、死後相続問題が起き、翌年二家に分断され鳥羽を去った。
  その後は内藤、土井、松平、板倉、松平、稲垣氏と城主が変わり、明治4年に廃城となった。
  鳥羽城は、別名を「錦城」といわれた。
  その理由は、九鬼氏の後の城主内藤氏の時代、鳥羽藩の大きな財源であったボラ漁にある。ボラは光や音に敏感な魚で、激昂や朝日に反射した城の白壁が、漁獲に支障をきたすため、海側全面を黒壁にしたのに由来する。陸が白、海が黒の二色が錦となったのである。錦浦、錦町の名称は、その名残である。

                                                                        <現地案内板より>

鳥羽城

INDEX

                本丸跡から鳥羽湾を望む
〜橋で繋がった島がミキモト真珠島、一番奥の島が九鬼嘉隆が自刃した答志島〜

本丸北側虎口から三の丸を見下す

          三の丸跡
〜説明板がありパンフレットも置かれている〜

 概説