高槻城
所在地 | 大阪府高槻市城内町(高槻城跡公園) |
形式 | 平城 |
主な城主 | 入江氏・和田惟政・高山右近・永井氏 |
遺構 | 移築門・礎石の石 |
指定・選定 | 府指定史跡 |
訪城年月日 | 2017年12月20日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
東大手門跡(市立第一中学校東側)
〜大手には北・南・東の各門があり、中でもここ東門は
表玄関となる正門であった〜
本行寺門の説明板
城の北方にある本行寺(ほんぎょうじ、高槻市大手町2)の
門は高槻城内の門が移築されたものである(現存)。
天守台風の模擬石垣
三の丸跡にある城跡公園
〜模擬石垣や模擬堀、高山右近の像がある〜
高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。
永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察師ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。
その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大坂夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、
永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。
明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。
高槻城跡は、昭和25年5月に府の史跡に指定されている。
<槻の木高校北東角にある案内板より>
城跡石碑の脇に並ぶ石は天守台や本丸御門の礎石とされる
高槻城
高山右近高槻天主教会堂跡(高槻商工会議所前)
〜天正2年(1574)、高山右近と父飛騨守友照によって
建立され、この教会堂を拠点にキリスト教が布教された〜
二の丸跡(槻の木高校の北側)
〜江戸時代には二の丸御殿が建っていたという。訪城日は
野球場などが取り壊されて空き地になっていた〜
高槻城跡の石碑
〜槻の木高校北東角の道路沿いにある〜
高山右近に関する説明板
高山右近の像
幕末期の高槻城縄張図(上記案内板)
本丸跡(城跡公園の西側)
〜現在本丸跡には府立槻の木高校(旧島上高校)が建って
いる。本丸には三重の天守が建てられていたとされる〜
市立しろあと歴史館に展示されている高槻城の模型