高松城

 所在地  香川県高松市玉藻町
 形式  平城
 主な城主  生駒親正・松平頼重
 遺構  艮櫓・月見櫓・渡櫓・水手御門・石垣・堀
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日   @1981年7月27日
 A2014年4月15日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C D 

城の東口(大手)である旭門と旭橋

中堀

大手枡形太鼓門跡

               桜の馬場
〜馬の教練をしたところで、かつては今の2倍ほどの広さが
あった〜

桜御門跡(三の丸入口)

    三の丸跡に建つ披雲閣(重文、大正6年再建)
〜松平藩時代にもこの場所に披雲閣と呼ばれる建物があり、
藩の政庁及び藩主の住居であった。明治時代に老朽化のた
め取り壊された〜

北の丸北東隅の鹿櫓跡

左から月見櫓、水手御門、渡櫓(すべて現存、重文)

     北の丸北西隅の月見櫓(現存、重文)
〜出入りする船を監視する櫓で着見櫓とも呼ばれる〜

二の丸北西隅の簾(れん)櫓跡

  天正15(1587)年に讃岐1国を与えられた生駒親正は、翌16年「野原」と呼ばれていた当地を「高松」と改め、高松城の築城を開始しました。天守も生駒時代に造られており、天守台石垣からは生駒家の家紋が彫られた石材が見つかっています。生駒氏の治世は寛永17(1640)年のお家騒動による転封まで4代54年間にわたりました。
  その後寛永19(1642)年に松平頼重が入封し、寛文10(1670)年から天守の改築、東ノ丸・北ノ丸の新造といった事業を実施しました。2代藩主頼常の代には、月見櫓や艮櫓の建造、大手の付け替え等が行われ、概ね現在の高松城の形が出来上がります。その後、明治3(1870)年に廃城されるまで、11代にわたり松平家の居城として、東讃岐における政治の中心的役割を果たしてきました。
  明治期に入ると、外堀は埋め立てられて市街化が進み、海に面していた城郭の北側も埋め立てられます。また、中堀よりも内側は兵部省(のち陸軍省)の管轄となり、城郭建物の多くは破却され、天守も老朽化を理由に明治17(1884)年には解体されています。明治23年(1890)に再び松平家に払い下げとなったのちに、天守の解体された天守台には初代藩主頼重を祀った玉藻廟が建てられました。昭和29(1954)年に高松市の所有となったのち、昭和30(1955)年には国史跡に指定され、玉藻公園として市民に開放され、現在の姿になっています。

                                                                           <現地案内板より>

高松城

INDEX

水門

二の丸跡

本丸と二の丸の間に架かる鞘橋(さやばし)

               天守台
〜平成17年から平成25年にかけて天守台の解体・修復
工事が行われた〜

東入口にある案内板

 概説

        艮櫓(うしとらやぐら、現存、重文)
〜もともと東の丸の北東隅にあった櫓で、昭和40年に現在地
(旧太鼓櫓跡)に移築された〜

三の丸南東隅の竜(りゅう)櫓跡

本丸跡

               天守台上
〜松平氏時代には3層5階(3層4階+地下1階)の天守が
建っていた〜