諏訪原城
所在地 | 静岡県島田市金谷 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 今福浄閑斎・今川氏真・松平家忠 |
遺構 | 曲輪・堀・馬出・土塁・井戸・土橋 |
指定・選定 | 国指定史跡・続日本100名城 |
訪城年月日 | 2017年5月11日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可 |
惣曲輪
九号堀を分断している土橋
六号堀の堀底に残るカンカン井戸
三号堀
~二の曲輪中馬出の外側にある三日月堀で、長さ70m、幅14.5mもあるという。かつては水堀だったらしい~
[二の丸]
(二号堀)
(三号堀)
(六号堀)
(五号堀)
大手北外堀
大手曲輪
~一面に茶畑が広がっているが、往時は武家屋敷が建ち並んでいた~
大手曲輪の南側に駐車場があるのでここから入城する
大手曲輪北側の案内板に描かれている縄張図
諏訪原城
諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で重要な遺跡として国の史跡に指定されています。
当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍鑑』等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、『諏訪原城』の名がついたと言われています。
天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち『牧野城(牧野原城)』と改名され、武田方となった高天神城(掛川市)を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。
天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。
<現地案内板より>
十二号堀
~二の曲輪大手馬出の外側にある三日月堀で、ここもかつて
は水堀であった(長さ89.7m・幅15.3m)~
諏訪神社
~二の曲輪大手馬出の中にある。武田氏が信仰していた
諏訪大明神が祀られており、諏訪原城の名称の由来とい
われる。鳥居横の石碑には見えにくいが「諏訪原城跡」と
記されている~
二の曲輪大手馬出
二の曲輪東馬出から二の曲輪東内馬出に続く土橋
九号堀
~この堀は土橋によって2つに分断されており、かつては
自然湧水による水堀であった(長さ109m・幅14.5m)~
三の丸
~古い看板では二の曲輪の南半分を「三の丸」としている~
⛩
本曲輪からの眺望
~眼下に金谷の街が見える~
本曲輪天主台地
~本曲輪奥部の少し高くなった所が天主台地で、2層の物見
櫓が建っていたと考えられている~
本曲輪
~通常、本曲輪は最高所に位置するが、諏訪原城の本曲輪
は二の曲輪よりも低い位置にある~
六号堀
~本曲輪と二の曲輪の間にある南側の空堀(長さ85m・
幅14.5m)~
五号堀
~本曲輪と二の曲輪の間にある北側の空堀で、長さ40m、
幅13mある。この堀は「三段鍵堀」といって底部が三段に
なっているそうだが、鬱蒼とした草木のため確認できない~
本曲輪虎口
~土橋の向こうが本曲輪である~
二の曲輪
二の曲輪
二の曲輪と二の曲輪中馬出を結ぶ土橋
二の曲輪北馬出
~木造の城門が復元されている~
二の曲輪中馬出
(九号堀)
(十二号堀)
(九号堀)
(四号堀)
P
大手曲輪に建つ今福浄閑戦死の碑
大手南外堀(11号堀)
水の手曲輪
二の曲輪南馬出
二の曲輪東内馬出
二の曲輪(三の丸)と二の曲輪大手馬出を結ぶ土橋。
土橋の手前が四号堀で橋の向こうが九号堀である。
壁のように切り立った構造のため「壁立」と呼ばれる。
四号堀
~二の曲輪と大手曲輪の間にある城内最大の堀で、長さは
221mにも及ぶ(幅14.5m)。自然の湧水による水堀であ
ったが、今は水はない~
カンカン井戸の内部
本曲輪
二号堀
~二の曲輪の外側にある堀で、長さ72.5m、幅14.5mもあるという~
[三の丸]
大手曲輪北側にある諏訪原城跡の碑