しょうずい
勝瑞城
所在地 | 徳島県板野郡藍住町勝瑞 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 細川氏・三好氏 |
遺構 | 水堀・土塁 |
指定・選定 | 国指定史跡・続日本100名城 |
訪城年月日 | 2012年11月16日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
本丸跡
本丸跡
見性寺本堂
橋の向こうが本丸跡(見性寺が建つ)
勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。15世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。
天文22年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を奪った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。
勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。
天正10年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。8月28日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが、9月21日、讃岐へ退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。
その後、天正13年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。
当地は16世紀末に築かれた詰の城で、館跡とともに平成13年1月29日に国史跡に指定された。城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は徳島県の有形文化財に指定されている。
<現地案内板より>
勝瑞城
左から三好之長、元長、義賢、長治の墓、一番右は不明
一部土塁が現存している
城(本丸)の周囲を巡る水堀
城(本丸)の周囲を巡る水堀