勝竜寺城
所在地 | 京都府長岡京市勝竜寺 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 細川藤孝 |
遺構 | 空堀・土塁 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2013年2月3日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
本丸西辺の土塁(復元)
本丸北門の石垣(復元)
本丸東辺の土塁(復元)
沼田丸の北辺堀跡
縄張図(現地案内板)
勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応2年(1339)に築いたといわれる。
城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷を同時に押さえうる交通の要所に築かれている。
応仁・文明の乱(1467〜1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与え
られた細川藤孝(幽斎)が元亀2年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正10年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が
城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。
ところで、この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が16歳で藤孝の子忠興(16歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城
としても全国に知られている。
城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁
跡や空堀跡が残されている。
この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成4年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した
時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られた。その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた
城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされた。
<現地案内板より>
勝龍寺城
本丸の西隣にあった沼田丸跡
本丸北門跡
本丸井戸跡
本丸北辺の塀(模擬)
本丸北東の隅櫓跡にある櫓風の東屋
本丸跡に建つ細川忠興とガラシャの像
本丸跡
〜正面の建物は資料館となっている〜
勝竜寺城公園の入口(本丸南門跡)
本丸周囲の水堀(復元)
本丸周囲の水堀(復元)