し ろ い
白井城
所在地 | 群馬県渋川市白井 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 白井長尾氏(山内上杉氏家臣)・本多康重 |
遺構 | 曲輪・石垣・空堀・土塁 |
指定・選定 | 市指定史跡 |
訪城年月日 | 2022年10月20日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(本丸跡に駐車可) |
本丸北東側の空堀は三日月状になっており、
堀底を歩くことができる
本丸空堀の堀底道
本丸跡
本丸跡
本丸〜二の丸間の空堀
北郭跡(大手虎口付近)
三の丸跡
白井城は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に自然の要害を利用して築かれた城である。全体が三角形に近い構造で、
城の中心である本丸は吾妻川沿いにあって西側は断崖に面しており、それ以外の方角は高さ3〜4メートルの土塁に囲まれている。北側には
枡形門があり、太田道灌が指導したとの伝承が残る石垣が現存する。本丸を出て深い堀を土橋で渡ると北へ二ノ丸・三ノ丸と続き、その間
にも堀が残っている。三ノ丸の外側には北の守りとして北郭・金比羅郭があり、本丸の南東にはささ郭・南郭・新郭が連なっている。さらに城域
の北と東には、それぞれ北遠構・東遠構の堀があって総郭(城下)を囲む構造になっていた。なお城の護りの一部として、玄棟院(曹洞宗)・
源空寺(浄土宗)をはじめとする大小の寺院が周囲に配置されている。また白井城の南東には仁居谷城があり、堀跡等も確認されていて両者
の関係が注目される。
いつ頃築かれたかは諸説あるが、15世紀中頃に関東管領山内上杉憲実の信任が厚かった長尾景仲(昌賢)によって築かれたと考え
られる。景仲は月江正文禅師を開山とする雙林寺(曹洞宗)や、白井の聖堂と呼ばれる学問所を開いたことでも知られている。その子孫も
白井城やその周辺をめぐる戦国の攻防の中にそれぞれの名を残したが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家に
攻略されて開城し、戦国の城としての役割を終えた。その後は徳川家康の関東入りにしたがい本多広孝・康重が城主(2万石、のち5万石)
となり、この頃に現在の姿に整備されたと考えられる。康重の岡崎移封後は戸田康長・井伊直孝・西尾忠永・本多紀貞と続くが、寛永元年
(1624)紀貞の病没とともに廃城となった。
これ以後の経過は明らかでないが、少なくとも明治時代以降は農地化されていたと思われ、昭和40年代の土地改良事業においても大幅な
地形の改変はなく、堀や土塁など城としての地形が良く残っている。なお、平成16年3月には本丸部分が子持村の史跡に指定され、保存と
活用がはかられていくことになった。
<現地案内板より>
白井城
本丸東側にある帯郭
本丸東側の空堀
本丸空堀の堀底道
本丸背後にある笹郭
本丸土塁
本丸跡
本丸枡形門の石垣
本丸虎口(枡形門跡)
本丸〜二の丸間の空堀
榛名山
二の丸跡
〜遠方に榛名山(はるなさん)が見える〜
二の丸〜三の丸間の空堀
三の丸跡
「白井宿」にあるこの商店横から入ると白井城の北郭跡に着く
本丸東側にある帯郭
本丸枡形門の石垣
二の丸跡
〜二の丸、三の丸、北郭跡は畑地となっている〜