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白鹿城

 概説

大井戸跡

 所在地  島根県松江市法吉町
 形式  山城
 主な城主  松田満重・満久・誠保
 遺構  曲輪・土塁・竪堀・井戸
 指定・選定  なし
 訪城年月日  2020年4月24日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B  D E
 車での登城  西ノ谷登山口(山の中腹)まで可

大井戸跡

一の床跡

            一の床跡(山頂)
 〜白鹿城最高所に位置するこの曲輪は本丸ではなく
 「一の床」 と呼称されている〜

               本丸跡
〜白鹿城は尼子十旗(月山富田城を防衛する出雲国内に
おける主要10支城)の筆頭であり、有力国人の松田氏が
城主であった〜

               本丸跡
〜本丸跡は単なる雑木林と化しており眺望もきかない〜

月見御殿跡(本丸手前)

竪堀

西ノ谷登山口に設置された案内板

白鹿城

  この城は、松江市の中心から北方4`の島根半島の山脈にある白鹿山(標高149.8m)に築かれた山城で、軍記物では白髪城とも書きます。
すぐ北側の真山には、この白鹿城に対する毛利の向城として築かれた真山城があります。
  城のはじまりはよくわかりませんが、戦国時代に尼子氏の本拠地であった広瀬の富田城を防衛する上で、この島根半島一帯は水運や軍事上
重要であったため、白鹿城を築いて戦略拠点としました。
  一方、尼子打倒と出雲制覇をもくろむ毛利勢は、元就をはじめ吉川元春、小早川隆景が自ら出雲にのりこみ、永禄5年(1562)宍道湖北岸の
荒隈山に荒隈城を築き富田城攻略の向城としました。しかし、まず半島の拠点である白鹿城を落とす必要がありました。幾たびかの攻防戦の末、
ついに翌6年(1563)10月落城しました。そしてこの3年後にとうとう富田城も毛利勢の手に落ちました。
  今、城跡には本丸、月見御殿、水ノ手、井戸跡、一ノ床、二ノ床、三ノ床、大黒丸、小白鹿、高坪山、大高丸、小高丸と呼ばれる郭などの遺構が
残り、当時使われた陶磁器やかわらけの破片が発見されています。
                                                                           <現地案内板より>

INDEX

二の床跡

一の床跡

竪堀

           西ノ谷登山口
〜白鹿山北西部の中腹にあり、駐車スペースもある。
ここから本丸跡までは徒歩10分程である〜

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