し か た

志方城

 所在地  兵庫県加古川市志方町志方町(観音寺)
 形式  平城
 主な城主  櫛橋則伊(のりこれ)・政伊(まさこれ)
 遺構  なし
 指定・選定  なし
 訪城年月日  2014年12月28日
 満足度  A B C D 
 登城難易度  A B C D 

志方城の本丸跡には現在観音寺が建っている

志方城

INDEX
 概説

  志方城は市易城とも呼ばれ、城の規模は、現在の当観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲む内堀の周囲二の丸(志方小学校所在のあたり)西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城であった。
  この城の城主、櫛橋家は藤原氏の末裔で伊朝を元祖とし代々赤松氏の家臣であった。伊朝より5代の孫櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に
仕えて大いに重ぜられ祖父の例にならって播備作3国の財産出納の役をつとめ文明13年(1481)志方、天神山に城を築き、ついて明応元年(1492)この地に志方城を築いた。以来伊家、伊定と父子3代88年間続いたが、天正7年8月10日羽柴秀吉の攻略にあって落城した。

                                                                         <現地案内板より>

観音寺裏手の墓地には城主4代の墓がある

観音寺は志方城落城の後、天正15年(1587)、
宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るため建立した

黒田官兵衛の妻・光(てる)は城主櫛橋伊定の次女として
天文22年(1553)この城で生まれ、永禄10年(1567)
15歳で官兵衛に嫁いだ

山門の脇にある標柱と説明板

観音寺山門