志賀城

 所在地  長野県佐久市志賀
 形式  山城
 主な城主  笠原清繁
 遺構  曲輪・石垣・堀切・土塁
 指定・選定  なし
 訪城年月日  2017年4月24日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A  C D E
 車での登城  不可

主郭奥の堀切の向こうはさらに高くなっており、櫓台のような
形状になっている

   尾根の西側にある堀切
〜重厚な石列が組まれている〜

主郭奥にある堀切

      主郭にある石祠
〜城主を祀っているのであろうか?〜

        曲輪
〜どの曲輪も無名曲輪である〜

頂上の主郭に向かって段々に曲輪が連なる

主郭下(南側)の石垣

尾根の中央部にある堀切

尾根の西側にある堀切

山道は尾根の西側に続き、そこから城域に入っていく。東西
に長く伸びる尾根には多数の曲輪が展開している。

山頂付近は巨大な岩盤が立ち並び天然の要害となっている。
山道はこの岩盤群の西側(向かって左)から回りこむように
山頂に続いている。

                登城口
〜寺の右手にあるこの階段を登って行く。この先、右へ曲が
る道(墓地の方へ)があるが、曲がらずにまっすぐ登る。ここ
が非常にわかりにくい。山頂の城域までは徒歩20分程度と
思われるが、案内板がない上、道が落ち葉で覆われてわか
りにくい〜

           山麓にある雲興寺
〜城主笠原清繁が天文10年(1541)に開山したとされる
寺で、後方の山上に城跡がある。寺の脇(向かって右手)
に登城口があるが、案内表示はない〜

志賀城

INDEX

  志賀城の築城時期、築城者は定かではないが、戦国時代は佐久郡の国人笠原清繁が城主であった。天文16年(1547)、佐久郡に侵攻して来た武田信玄に対し、清繁は籠城して抗戦。その後、隣国上野より関東管領上杉憲政の軍が志賀城救援のため来援するが、信玄はこれを城の北方にある小田井原にて迎撃し、討ち取った敵兵の首3千を城の眼前に並べて見せしめにした。清繁はなおも抵抗を続けたが、結局、城は攻め落とされ、清繁以下城兵300余が討ち取られた。清繁夫人は武田氏の重臣小山田信有の側室にされ、捕えられた兵は奴隷として金山で働かされ、婦女子も売り払われたという。

曲輪

曲輪

            笠原清繁の首塚(伝)
〜雲興寺の少し東、県道44号線沿いの田んぼの中にある〜

              最高所の主郭
〜三角点の標柱があるだけで城に関する表示物は何もない〜

主郭下(西側)の石垣

                 曲輪
〜曲輪虎口の両側に巨石があり、石門のようになっている〜

堀切の西側(尾根の西端)にある石垣

 概説

曲輪