あ か な
瀬戸山城(赤穴城)
本丸から第二・第三郭を見下ろす
本丸跡
大手門跡に立つ道標
大手門石段
大手門跡
大手門跡
所在地 | 島根県飯石郡飯南町下赤名 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 赤穴光清・赤穴盛清・松田吉久(左近) |
遺構 | 曲輪・石垣・土塁・堀切 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2020年4月24日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可 |
本丸跡
本丸直下の石垣
〜石垣は松田氏時代に築かれたものとされる〜
第二郭から本丸方面を見上げる
第二郭から第三郭を見下ろす
第三郭
第二郭
東郭群
第四郭
登山口
〜赤名小学校裏手に登山口があり、山頂の城跡までは1km、
徒歩20分程度である〜
瀬戸山城
赤穴瀬戸山城は、赤穴荘の地頭となった佐波備中守常連が赤穴氏を名乗り、永和3年(1377)に築城に着手したと伝えられる。出雲・石見・
備後の国境に接し、戦国時代には月山富田城(尼子氏)の支城として度々、戦場となった。特に天文11年(1542)の大内氏による尼子遠征
の戦いにおいては、尼子方に属し、城主赤穴光清を中心として地の利を活かした奮戦を展開、後の大内氏・尼子氏の決戦を尼子方勝利へと
導いた。
江戸時代、堀尾吉晴からこの城を賜った堀尾家重臣の松田左近将監吉久は城内に石垣を築くなど近世城郭化を図るとともに、城下に街並み
を移転させ城下町を整備し赤名宿の基礎を築いた。2代目の城主には松田左近の子であり、堀尾吉晴の娘婿でもあった堀尾因幡の名もみえる。
その後、堀尾氏に代わって出雲国を治めた京極氏は、赤穴瀬戸山城に山中織部を派遣したが、慶長20年(1615)の一国一城令により、
この城も廃城となったとされ、石垣を意図的に壊すなど「破壊」が行われた形跡が今も城郭のいたるところに認められる。
<現地案内板より>
本丸跡からの眺め
南西郭群土塁
南西郭群
第三郭から南西郭群を見下ろす
第五郭
第三郭から南西郭を見下ろす
山麓にある松田左近(江戸初期の城主)の墓
瀬戸山城縄張図(大手門跡案内板)
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