関宿城
本丸跡
所在地 | 千葉県野田市関宿町 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 簗田高助・簗田晴助・松平康元 |
遺構 | 移築城門・移築本丸御殿 |
指定・選定 | 市指定史跡 |
訪城年月日 | 2023年10月12日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
関宿城博物館
城門の説明版(拡大可)
関宿城博物館
〜江戸時代に建っていた御三階櫓(天守代用)を模して
建てられたが、城跡とは異なる場所に建てられている〜
本丸南側の二の丸跡・三の丸跡も民家と田畑になっている
関宿城曲輪の説明版
関宿城の起源は明確ではありませんが、長禄元年(1457)には簗田氏によってこの地に城が築かれていました。関東平野の中心に位置し、
水上交通の要衝であることや乱流する大河を天然の要害とする堅固な守りを持つことから、「この城を手に入れるのは一国を得ると同じ」と
称され、戦国時代にはたびたび争奪戦が繰り広げられました。
簗田氏による支配は100年ほどにわたりましたが、天正2年(1574)に後北条氏の支配下となります。小田原征伐の際には、豊臣・徳川連
合軍の手に落ち、天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に際して、家康の実弟である松平康元が2万石の領地を与えられ関宿藩主として
入封します。以後は、板倉氏、牧野氏など江戸幕府でも要職に就く大名が配され、宝永2年(1705)に久世重之が入城してからは、明治維新
まで久世氏が藩主を務めました。
江戸時代の関宿城は本丸、二の丸、三の丸、発端曲輪のほか侍屋敷が置かれ、三層の天守を中心に、多くの建物が築造されていました。
明治2年(1869)の版籍奉還後は、明治政府に管理が移され廃城となり、一部が民間へ払い下げられました。
市内には埋門(市指定有形文化財・東高野)や本丸御殿(実相寺客殿)などが現存しています。また、本丸の3分の2が関宿城跡(市指定史
跡)として残されています。
<現地案内板より>
関宿城
逆井城跡(茨城県坂東市)に移築された城門
本丸跡から見た関宿城博物館
本丸跡
本丸跡
本丸跡
博物館内に展示されている関宿城の模型
本丸跡に建つ城址碑
城跡の西を流れる江戸川
博物館から城跡を望む