佐用城
所在地 | 兵庫県佐用郡佐用町佐用 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 福原則尚 |
遺構 | 曲輪・土塁・空堀 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2020年8月12日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
二の丸跡
馬場跡
本丸跡
本丸跡
佐用城
中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空掘、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。
元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家をただ一箭に打ち取った佐用兵庫介範家の築城
と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうちの福原氏がこの城を継いだので、福原城とも言われている。
戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年
(1577)11月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚の首級を祀るため城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭様)」として今に広く
崇敬されている。
<現地案内板より>
本丸土塁
本丸土塁上に建つ福原霊社
本丸土塁上に建つ福原霊社
こうべ
福原霊社