猿掛城

 概説

登城口

 所在地  広島県安芸高田市吉田町多治比
 形式  山城
 主な城主  毛利弘元・元就
 遺構  曲輪・土塁・堀切・井戸
 指定・選定  国指定史跡
 訪城年月日  2012年10月2日
 満足度  A B C  E
 登城難易度  A  C D E
 車での登城  不可

本丸跡からの眺望

郡山城跡

本丸跡

山麓駐車場にある案内図

  多治比猿掛城跡は、郡山城跡から多治比川に沿って、北西4km上流にある。石州路に通じる交通の要衝で、郡山城の北方を守る重要な位置にあった。築城から廃城までの歴史的な経過は明らかでないが、毛利元就が青少年期を過ごした城として知られている。
  元就は4歳の時、明応9年(1500)家督を長子興元に譲り、隠居した父弘元に連れられ、郡山城からこの城に移り住んで以来、大永3年(1523)27歳の時に、甥の幸松丸夭折のあとをうけて、毛利家の家督を継承し郡山城に入城するまで、この城に居た。
  遺構は、標高376m、比高120mの急峻な山上に長大な平坦面と櫓台、土塁などを持った本丸、二の丸、三の丸などからなる、中心部曲輪群をおき、その背後には深い堀切、尾根続きに物見丸、中心部から北下方に寺屋敷曲輪群があり、竪堀もみられ、谷をはさんで出丸がある。山麓には悦叟院(えそういん)の寺跡があって、そこに毛利弘元・同夫人の墓所がある。城跡は、良好に保存されており、戦国期の毛利氏の城のあり方をよく示す、貴重な城跡である。

                                                                       <現地案内板より>

猿掛城

INDEX

猿掛城跡近くにある杉の方(弘元の継室)の墓

猿掛城跡遠望

    本丸櫓台
〜台上には何もない〜

        本丸跡
〜奥にある土盛は櫓台である〜

山頂の本丸跡

寺屋敷曲輪群

山麓にある毛利弘元(元就の父)と夫人の墓

登城口にある城址碑と案内板

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