坂本城
所在地 | 滋賀県大津市下阪本 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 明智光秀 |
遺構 | 移築門・石垣(湖中に水没) |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2017年8月13日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
左側の札には「明智光秀坂本舊(旧)城門」と書かれている
城跡の北方にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)の表門も
坂本城の城門を移築したものと伝わる(重要文化財)。
光秀の墓の並びにある正室煕子(ひろこ)の墓
西教寺には明智光秀の墓もある
西教寺総門の説明文
二の丸跡に建つ城址碑
〜東南寺(下阪本3)の西側にある〜
公園のすぐ目の前は琵琶湖である
明智光秀の石像
坂本城跡公園(正式名称:都市公園湖岸緑地・北大津地区)内説明板に描かれた縄張図
〜図によると城跡公園の位置は縄張外のようである〜
坂本城
元亀2年(1571)9月の山門(比叡山延暦寺)焼き打ち直後、織田信長は明智光秀に滋賀郡支配を命じるとともに、浜坂本(三津浜)に水城を築かせました。日本最古級の天主がそびえていた坂本城について、当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、天正4年(1576)に築城された信長の安土城に次いで豪壮華麗な城と賞賛しています。
坂本城築城の目的は、山門の監視ばかりでなく、彦根の佐和山城とともに、信長の領国美濃と京都とのルートの確保、水運の重要な拠点などがあげられます。
この城は、天正10年6月の山崎の合戦ののち焼失しますが、丹羽長秀によって再建され、同14年頃、城主浅野長吉の時に大津城に移るまでこの地にありました。
昭和54年(1979)の「字城畔」の発掘調査では、厚い焼土や城の施設の一部とみられる建物の礎石や石組の井戸・土坑・溝・石垣の基礎石などが見つかっています。
<現地案内板より>
公園の東辺にある石列
公園の東辺にある石列
〜城の遺構かどうかは定かでない〜
説明板
公園内には城に関する説明板や明智光秀の石像がある
大溝城
城跡の北西にある西教寺(さいきょうじ)の総門は坂本城の
城門を移築したものと伝わる
城跡公園入口に建つ「坂本城址」の碑