り か ん
利神城
所在地 | 兵庫県佐用郡佐用町平福 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 別所林治(しげはる)・池田由之 |
遺構 | 曲輪・石垣・空堀 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2010年5月9日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(山頂近くまで上がる林道あり) |
利神城跡遠望
天守台から三の丸方面を見下す
二の丸枡形虎口(外側)
二の丸石垣
二の丸石垣
二の丸跡
三の丸石垣
三の丸跡
徒歩での登山口(平福駅南側)
〜「登山はご遠慮ください」との警告文があるが、フェンスは
施錠されていなかったので、フェンスを開けて入山〜
利神山北側にある林道入口
〜ここから車で上がったが、途中、土砂崩れによって道が
塞がれていたため、徒歩で登ることにした〜
赤松一族から最北端の防備の任をうけた、加西郡別所の構えにあった別所肥前守敦範が、貞和5年(1349)佐用郡に入り、比良福利神山に砦を築き、口長谷に館を構えて移り住んだことに始まる。
別所肥前守光則の代に嘉吉の乱が起こり、一時敗退したが応仁の乱に際し、別所静治は風雲に乗じ、都の赤松政則を助け赤松家再興を図った功績により、旧領利神城主に復帰することができた。天正6年(1578)1月2日上月城にあった山中鹿之助は、突如利神城を攻めたが、時の城主別所日向守林治は城を出て瓶岩の地にこれを迎え討ったが叶うべくもなく家老磯部主計ら数名が敵中に切り込む間に城主は落ち延び、ここに赤松家は滅んだのである。
慶長5年(1600)関ヶ原の功により、池田三左衛門輝政、姫路城に入る甥の家老池田由之に佐用郡2万3千3百石を与え統治を一任した。由之は利神山山頂の砦を打ち壊し、5ヶ年の歳月をかけ、他の助成のないまま独力で巨大な城郭群と麓に常御殿と呼ばれる居館と武家屋敷を構えた。
口伝によると慶長10年由之の要請により、輝政は、落成なった利神城見分のため駒を進め、釜須坂頂上にさしかかるや、北方遥かに雲を凌いでそびえ立つ巨大な城郭群に驚き、駒を返し使者を送り即刻破却を厳命したという。
今に残る利神城の絵姿や、山頂の石垣群を見て、往時の雄大さを偲ぶのみである。
<現地案内板より>
利神城
本丸跡から平福の町を見下ろす
天守跡
〜江戸時代初期には三重の天守が建てられた〜
天守台虎口
天守台石垣
本丸石垣と埋門
本丸跡
天守台下の帯曲輪には崩落した石垣が散乱している
二の丸枡形虎口(内側)
二の丸〜馬場方面の石垣群