大溝城
所在地 | 滋賀県高島市勝野 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 織田信澄・分部(わけべ)光信 |
遺構 | 石垣・曲輪・長屋門(大溝陣屋) |
指定・選定 | 市指定史跡 |
訪城年月日 | 2013年8月11日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に大溝城が築かれた。この城は、びわ湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承されている。
そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主磯野員昌が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正6年(1578)2月3日その跡地を甥(弟信行の長男)の織田信澄に宛行い大溝城主とした。
城主に入った信澄は、高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また、織田軍の遊撃軍団の1つとして活躍した。
ところが、天正10年6月2日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、6月5日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を、大阪城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた。
大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和5年(1619)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部氏に引きつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育くんで来た。
この大溝城本丸跡は、平成8年3月高島町指定文化財となった。
<現地案内板より>
大溝城
天守台石垣
天守虎口
天守台上
天守台石垣
天守台石垣と案内板
三の丸跡
〜元和の一国一城令により、三の丸以外は破却され、
分部氏は三の丸に陣屋を構えてこの地を統治した〜