岡崎城

坂谷曲輪

 概説

東隅櫓

坂谷曲輪にある徳川家康産湯の井戸

天守最上階

天守閣(昭和34年再建)

 所在地  愛知県岡崎市康生町
 形式  平山城
 主な城主  松平清康・松平広忠・徳川家康・田中吉政
 遺構  石垣・堀・井戸
 指定・選定  市指定史跡・日本100名城
 訪城年月日   @1983年4月
 A2016年5月22日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C D 

隠居曲輪

風呂谷曲輪

持仏堂曲輪

大手門

二の丸

本丸

             松平家墓所
〜墓所は岡崎城の北方約3.5kmの大樹寺にある〜

       坂谷曲輪にある「えな塚」
〜徳川家康のえな(胴衣)を埋めたとされる塚〜

本丸東南部にある虎口 「風呂谷門」跡
  〜この先は風呂谷曲輪に至る〜

天守閣

        本丸北側の空堀 「青海堀」
〜築城者である西郷頼嗣(青海入道)の名に由来する〜

         大手門(平成5年再建)
〜二の丸の入口に再建されているが、実際には三の丸
(さらに北東)の入口に建っていた〜

二の丸跡にある城内案内図

  享徳元年(1452)または康正元年(1455)、明大寺に居館を構えていた西郷弾正左衛門頼嗣(青海入道)が菅生川の北岸に砦となる城を築いたのが岡崎城の始まりである。その後、安祥城主から岡崎城主となった松平清康は享禄4年(1531)にこの地を本拠とし、本格的な岡崎城を構えた。
  天文11年(1542)12月26日に城中で徳川家康が誕生しており、城内にはえな塚、産湯の井が残る。
  天正18年(1590)に豊臣秀吉の部将であった田中吉政が入城。城郭を拡張して東海道を城下に引き入れ、城の東・北・西に惣構えの堀を巡らし、近世の岡崎城と城下町の基礎づくりを行った。
  江戸時代は石高5万石の譜代大名(前本多家4代−水野家7代−松平家1代−後本多家6代)の居城となり、その間たびたび修復が行われた。
  明治維新後、天守閣以下の建物は明治6年(1873)に取り壊され、本丸・二の丸など主要部分は明治8年に岡崎公園となった。現在の天守閣は昭和34年の再建である。

                                                                         <現地案内板より>

岡崎城

INDEX

家康の祖父・松平清康の墓

家康の父・松平広忠の墓

本丸南側の内堀

本丸石垣(風呂谷口付近)

本丸西南部にある虎口(埋門跡)
 〜この先は坂谷曲輪に至る〜

天守内部(最上階)

天守閣

本丸跡に建つ龍城(たつき)神社
〜徳川家康・本多忠勝を祀る〜

本丸跡

二の丸から持仏堂曲輪への枡形虎口

二の丸南側の空堀

二の丸南側の空堀

二の丸跡に建つ本多忠勝の銅像

二の丸跡に建つ徳川家康の銅像

          二の丸御殿の井戸
〜江戸時代の石組井戸で、平成19年度の発掘調査で
発見された〜

           二の丸跡
〜広大な二の丸には二の丸御殿が建っていた〜

東隅櫓(平成22年再建)