岡山城

 所在地  岡山県岡山市北区丸の内
 形式  平山城
 主な城主  宇喜多秀家・池田光政
 遺構  月見櫓・石垣・堀
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日   @1981年7月
 A2010年10月16日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C D 

             天守閣と塩蔵
〜天守閣の左側には塩蔵と呼ばれる櫓が連立している〜

平成5年の発掘調査で発見された宇喜多氏時代の石垣
(中の段)

               大納戸櫓跡
〜中の段の南西隅に三重の櫓(城内最大の櫓)が建っていた〜

  月見櫓(現存、重文)
〜中の段の北西隅に建つ〜

     廊下門(復元)
〜中の段北側の入口である〜

                       廊下門手前にある案内図
〜岡山城の本丸は、天守閣のある上段(本段という)、表書院のある中段(表向または中の段という)、
そして下段の3段に分かれていた〜

  備前国邑久郡から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573)の秋であった。石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。
  その子八郎秀家は、天正18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597)天守閣が落成するにおよんで城普請は完成した。これが豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城本丸である。
  秀家の築いた天守閣は、二階建の建物を大中小の三つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城(うじょう)」の別名がある。この天守閣は、昭和6年に国宝に指定されたが、第2次世界大戦による昭和20年(1945)6月29日の、市街地空襲により焼失した。
  現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月に鉄筋コンクリート造りで再建されたもので、外観は全く旧来の通り復元されている。

                                                                          <現地案内板より>

岡山城

INDEX

             六十一雁木上門
〜当初、雁木(石階段)が六十一段あったことが名称の由来
とされ、階段の下にも櫓門(六十一雁木下門)があった〜

六十一雁木上門(ろくじゅういちがんぎうえもん、復元)
   〜本段から直接下段に降りられる門である〜

             天守閣の礎石(本段)
〜現在の天守閣を再建する際に礎石のみをこの場所に移した〜

鉄門の石垣

   鉄門(くろがねもん)跡
〜中の段南側の入口である〜

          表書院跡
〜中の段にあり、ここで藩政が行われた〜

内下馬門の石垣

内下馬門(大手門)跡

 概説

月見橋(旭川上)から見た天守閣

旭川対岸(後楽園側)から見た天守閣

             本段
〜本段御殿があり藩主はここで生活していた〜

  本段への入口である不明門(あかずのもん、復元)
〜通常は閉じられたままで使われることがなかったため
不明門と呼ばれる〜

中の段に復元された小庭園