お ぎゅ う

大給城

 所在地  愛知県豊田市大内町城下
 形式  山城
 主な城主  松平乗元・乗正
 遺構  曲輪・石垣・土塁・堀切
 指定・選定  国指定史跡
 訪城年月日  2013年12月1日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  可(ほぼ山頂の登城口まで)

水の手曲輪(縄張図D)

主郭跡(東側)

           主郭石垣
〜主郭の中央で間仕切のように築かれている〜

曲輪2

城域入口にある縄張図

  大給城址は、西方眼下に九久平の集落を見下ろす標高204メートルの急峻な山上に築かれている。九久平は足助街道と新城街道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝であった。
  城の東西には、尾根づたいに攻めて来る敵の侵入を防ぐために、堀切A・Bを設けている。東側からの進入路を通ると、門や櫓などで防御された虎口(入口)Cを抜け、曲輪2を経て主郭1へと至る。城内のいたる所には花崗岩の巨石が見られ、主要な部分は石垣で固められている。Fは物見岩と呼ばれ、ここからは尾張の国をはじめ遠く鈴鹿の山々を望むことができる。岩上には一辺数センチメートルの穴が並んでいるが、いつ何のために開けられたかは不明である。D・Eは石垣を駆使して谷に設けられた大規模な取水施設である。主郭1から南に下ったところにある3は城主の館跡と考えられる。
  本城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(岡崎市)に進出した松平宗家3代の信光が攻略し、三男親忠(松平宗家4代)に与えた。親忠は細川城(岡崎市)とともにこれを次男乗元に譲り、乗元が大給松平氏の初代となった。大給松平2代乗正は永正7年(1510)までに城の大修築を行った。以後、乗勝、親乗、真乗、と続き、天正18年(1590)6代家乗のとき徳川家康の関東への国変えに伴って上野国(現群馬県)に移り、大給城は廃城となった。

                                                                         <現地案内板より>

巨石を積み上げて造られた通路?(縄張図A付近)

巨石がゴロゴロ横たわる縄張図A付近

大給城

INDEX

城主・松平乗元の墓

城主の館跡(曲輪3)

   水の手曲輪(縄張図E)
〜規模の大きさに驚かされる〜

主郭のさらに奥(西側)にある物見岩

主郭虎口石垣

主郭石垣

主郭西側に建つ城址碑

主郭跡(西側)

主郭跡(西側)

曲輪2から主郭(曲輪1)へ続く道

曲輪2の土塁

2番目の虎口(縄張図C)

最初の虎口(縄張図C)

堀切(縄張図A)と城址碑

 概説