小幡城
所在地 | 茨城県東茨城郡茨城町小幡 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 大掾(だいじょう)氏・江戸氏・佐竹氏 |
遺構 | 空堀・土塁・土橋・井戸 |
指定・選定 | 町指定史跡 |
訪城年月日 | 2023年10月12日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可 |
堀底道は所々で折れ曲がり、横矢が掛かっている。
堀の深さは最も深い所で10mを超えるという。
本丸入口にある説明版(拡大可)
香取神社拝殿
本丸土塁
本丸土塁
本丸跡
〜広さは東西約80m、南北約50mあり、周囲は土塁で
囲まれている〜
堀底道を歩くばかりなので、城の縄張が把握しづらい。
本丸跡
本丸入口
四の郭と五の郭を繋ぐ土橋
四の郭と五の郭を繋ぐ土橋
櫓跡
櫓台への登り口
堀底道はよく整備されていて歩きやすい。
縄張図(本丸に設置された案内板より)
小幡城は、大掾詮幹の三男義幹が室町時代(1420年ごろ)に築いたという説と、小田知重の三男光重が鎌倉時代(1220年ごろ)に築いた
という二説がある。
戦国時代の文明年間(1481年ごろ)以後は、水戸城の江戸氏の影響下に入る。
現在の城域約12fが整備されたのは、元亀〜天正年間(1570年代)と思われ、府中城の大掾氏を攻める拠点として重要な役割をはたして
いる。
安土・桃山時代の天正13年(1585年)の書状には小幡城将として大塚弥三郎と小幡孫二郎の名が見える。このころ城の守りを強化する
ため、涸沼周辺の土豪が当番制で動員されている。
天正18年(1590年)12月、豊臣秀吉の権力を背景にした太田城(常陸太田市)の佐竹義宣により、水戸城の江戸氏は城をうばわれ、
府中城の大掾氏は滅亡、この時小幡城も落城した。
その後、小幡は佐竹氏の秋田移封(慶長7年・1602年)まで佐竹義宣の直轄地となり、家臣の和田昭為が管理している。小幡城は天正18年
の落城、あるいは佐竹氏の移封の時に、数百年にわたる歴史的役割を終えたと考えられる。
<現地案内板より>
小幡城
本丸井戸跡
本丸井戸跡
〜落城時にお姫様が金の鳥を抱えて身投げしたという
言い伝えが残る(井戸説明版より)〜
櫓跡のそばにある「変形武者走り」
〜ここから両側の堀底道の敵を攻撃できる〜
所々に道しるべがあるので道に迷う心配はない。
外部とは完全に隔離された異様な空間である。
香取神社
〜城の北東(鬼門の方角)に建ち、城の守護神とされる〜
よしもと
堀底道(本丸北側)
入口から入ると、いきなり巨大空堀が出現し、圧倒される。
以後はまるで迷路のような堀底道が奥深くまで続く。
堀底道(本丸と五の郭の間)
だいじょうのりもと
城跡入口
城跡遠望