能登末森城

 所在地  石川県羽咋郡宝達志水町竹生野
 形式  山城
 主な城主  土肥親真・奥村永福(ながとみ)
 遺構  曲輪・土塁・空堀
 指定・選定  県指定史跡
 訪城年月日  2019年5月16日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B  D E
 車での登城  不可

小丸大手門跡(若宮丸下)

末森城跡案内図(国道471号線沿い案内板)

末森城

INDEX

 本丸跡からの眺望
~日本海が望める~

本丸跡

本丸跡

二の丸跡

二の丸遠望(二の丸下は空堀)

登城口に建つ古戦場碑

  末森城は、能登守護畠山氏の家臣土肥親真によって築かれたとされる。天正5年(1577)、越後から侵攻してきた上杉謙信に降伏するが、そのまま末森城主として留まった。さらに、天正8年(1580)、織田信長の家臣で北陸地方平定にあたっていた柴田勝家に攻められて降伏。
新たに能登の国主となった前田利家の与力となるが、引き続き城主となった。しかし、親真は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで戦死して
しまう。翌年、羽柴秀吉と徳川家康が対立し、前田氏は羽柴方についたが、徳川方となっていた佐々成政が越中から侵攻。時の城将奥村永福(前田家臣)は城を死守し、援軍の到着によって佐々軍を撃退した。城はその後、元和の一国一城令によって廃城となった。

末森城は末森山(標高139m)の山頂に築かれた山城である

二の丸から本丸への登り口

             馬掛場跡
~「馬掛場」と呼ばれているが、本丸説明板によると、
城主の館があった場所と考えられている~

若宮丸跡

二の丸跡

若宮丸跡

城跡までは大した登り坂もなく歩きやすいが、徒歩15分と
そこそこの距離がある

 概説

本丸背後(北側)の曲輪跡

登城口