に っ た か な や ま
新田金山城
所在地 | 群馬県太田市金山町 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 岩松氏・由良成繁 |
遺構 | 曲輪・石垣・堀切・竪堀・土塁・井戸・池 |
指定・選定 | 国指定史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | 2022年10月20日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可 |
井戸跡(大手虎口南上段曲輪)
馬場曲輪〜三の丸間の大堀切
天主曲輪裏の石垣
天主曲輪からの眺望
天主曲輪
〜城内最高所にある曲輪で、戦前は本丸と呼ばれていた。
現在、新田神社、御嶽神社、梅若稲荷神社が建っている〜
二の丸跡
月ノ池
縄張図(南曲輪に設置された案内板より)
今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。その後、下剋上によって実質的な城主
となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その
攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12年(1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の
帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。
天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡と共に廃城となりました。江戸時代には金山「御林」として徳川幕府直轄地となり、現在に良好な
城跡遺構を遺す結果となっています。
昭和9年(1934)には、歴史的価値の高さと遺構の残存状況が良好なことから、県内では初めて城跡として「史跡」の指定を受けました。
廃城後約400年を経過し、遺構の多くが樹木や竹・下草で覆われ、城の面影は失われていましたが、調査の結果、大規模かつ複雑な虎口
形態を持っていたことや、さらに、曲輪斜面の石垣、石敷通路や土塁石垣など、随所に石を多用している山城であったことが明らかとなって
来ました。往時(中世末)における関東の山城としては、きわめてめずらしい「石垣の城」という様相が明らかとなりつつあります。
太田市では、この貴重な文化遺産を護り、難攻不落の堅固な金山城の姿を可能な限り再現し、市民の「憩いの場」「歴史学習の場」として
広く活用されることを願っております。
<現地案内板より>
新田金山城
天主曲輪裏の石垣
天主曲輪説明板(拡大可)
天主曲輪裏の馬場跡
天主曲輪裏の武者走り跡
天主曲輪に建つ本丸跡の碑
天主曲輪
御台所跡
本城説明板
御台所曲輪(本城)
南曲輪
南曲輪
日ノ池
大手虎口全貌
大手虎口上の土塁石垣
大手虎口南上段曲輪
大手虎口北下段曲輪
大手虎口
馬場曲輪直下の石垣
馬場曲輪
馬場下の堀切
馬場下通路の石垣と木橋
物見台からの眺望
物見台
城跡入口(駐車場東側)
〜ここから大手虎口まで徒歩約15分である〜
馬場下の石敷き通路
大手虎口石垣群
大手虎口石垣群