七尾城

 所在地  石川県七尾市古城町
 形式  山城
 主な城主  畠山義総(よしふさ)・義続・義綱
 遺構  曲輪・石垣・土塁・空堀
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2013年5月9日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  可(山頂付近駐車場まで)

桜馬場下の石垣群

桜馬場下の石垣と本丸へ続く石段

          調度丸跡
〜弓矢などの武具(調度)を整えた場所〜

調度丸虎口(大手道)

      駐車場のすぐそばの登城口
〜ほぼ山頂の駐車場まで車で登ることができる〜

    本丸跡からの眺望
〜七尾湾や能登島が見える〜

本丸西側の石垣

本丸西側の土塁

七尾城址の碑(本丸跡)

本丸跡

本丸跡

              西の丸跡
〜西の丸に至る道や階段はなく、斜面を直登するしかない。
また、看板や道しるべもない〜

駐車場にある案内板に描かれた復元イラスト

  七尾城は室町幕府三管領の1つ、畠山氏から分かれた能登畠山氏の居城である。
  石動山山系の北端に位置し、標高約3百米の尾根に長屋敷(長殿丸)・本丸・西の丸・二の丸・三の丸などの曲輪を配置、この尾根から枝分かれする幾筋もの尾根にも大小無数の砦を配置している。それ故に、七尾という地名は、七つの尾根に由来するという。
  築城年代は明らかではないが、戦国期に入ってから逐次拡張・増強されたとみられる。永正・天文(1500年代前半)の時代は最も政治的にも安定し、文化が栄えた。大永6年(1526)当代一流の歌人冷泉為広・為和父子が七尾城に来訪し、天文13年(1544)の記録では、城山山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なったと見える。
  天正5年(1577)、越後の上杉謙信の攻略にあって落城、能登畠山氏は滅亡した。
  本丸から三の丸にかけての一帯は、地形を巧みに利用した規模雄大な縄張と、石垣・土塁・空堀、それらを備えた曲輪の保存状態が良いというので、昭和9年12月28日国の指定史跡となった。
                                                                     
    <現地案内板より>

七尾城

INDEX

三の丸跡

     二の丸から三の丸への道
〜非常に急峻で深い堀切となっている〜

二の丸跡

二の丸石垣

         九尺石と呼ばれる石垣(温井屋敷跡)
 〜城の鎮護のかなめ石で、石の大きさにちなんでこの名がある〜

重臣・温井氏の屋敷跡

本丸北側石垣

本丸櫓台?上に建つ城山神社

本丸へ続く階段

遊佐屋敷の石垣

守護代・遊佐氏の屋敷跡

桜馬場跡

桜馬場下の石垣群

桜馬場下の石垣群

桜馬場下の石垣群と説明板

 概説