中津城
所在地 | 大分県中津市二ノ丁 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 黒田孝高・細川忠興・小笠原氏・奥平氏 |
遺構 | 石垣・堀 |
指定・選定 | 続日本100名城 |
訪城年月日 | 2001年10月7日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
模擬天守
中津城は福岡県と県境を形成する山国川の支流中津川の河口沿いに位置します。北は海、西は川に面した要衝の地であり、堀の水かさは潮の干満で上下します。東は二重、南は三重の堀を有し、外堀には「おかこい山」と呼ばれる土塁をめぐらせていました。
1587(天正15)年、豊臣秀吉は九州をその支配下にいれ、豊前下毛郡など六郡の領主として、自らの軍奉行であった黒田孝高(如水)を入国させました。黒田氏ははじめ、大塚山の砦を修築し根拠地としていましたが、1588年、中津江太郎の居城であった丸山城を修補し中津城の築城にとりかかりました。「黒田如水縄張図」と伝えられる絵図には、本丸、二の丸、三の丸とともに「京町」「博多町」「町」「侍屋敷町家」「寺モアリ」と記されています。
1600(慶長5)年、黒田氏にかわり入城した細川忠興は、中津城に忠利をいれました。忠利は1603年から1620年まで中津城の増改築を行いました。1615(元和元)年「一国一城令」により、豊前国では小倉城以外の城は破却の危機に瀕しましたが、忠興が老中土井利勝らへ働きかけたことにより、例外的に中津城は残ることができたのです。1620年、忠興は隠居して三斎と号し、中津城に入ります。三斎の隠居城として修復、完成をみた中津城には、本丸、二の丸、三の丸と八門、二十二の櫓が設けられ現在の形がほぼ整いました。
1632(寛永9)年、細川氏の熊本転封によって、中津には譜代大名小笠原長次が入部し、城下町の整備を行いました。1717(享保2)年、譜代大名奥平昌成が中津に入り、以後1871(明治4)年の廃城まで、中津藩主の居城として存続しました。
<中津市教育委員会発行「中津城を知る」より>
中津城
天守より中津川さらに周防灘を望む
〜中津城は伊予今治城・讃岐高松城とともに日本三大水城
に数えられる〜
大手門の石垣
本丸の西口である水門跡
本丸の東口である椎木門跡
昭和39年に建てられた模擬天守
〜実際に天守があったのかは不明である〜
本丸跡に建つ奥平神社
〜藩主奥平氏を祀る〜
右手は大鞁(だいひ)櫓