長窪城

 所在地  長野県小県郡長和町古町
 形式  山城
 主な城主  大井貞隆
 遺構  曲輪・堀切・櫓台
 指定・選定  町指定史跡
 訪城年月日  2017年4月24日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  可

本郭櫓台

本郭の城址碑

                本郭
〜二の郭よりもさらに狭く、武田信玄がこの城を北信濃進攻
の前線基地としたとは考えにくい規模である〜

    二の郭
〜大して広くはない〜

主郭部に向かう道中には5条の堀切が見られる

     登城口からの遊歩道
〜ここから主郭部までは5分ほどである〜

              登城口(搦手側)
〜ほぼ山頂にあるこの登城口まで車で登ってくることができる〜

国道254号線を走っていると「長窪城跡」を示す標識があり、
ここから林道を600m行くと城跡に至る

登城口案内板の縄張図

  この城跡は、別に深山城、または霞の尾城ともいい、室町時代中期の応永年間(1400)大井氏、または芦田氏(依田氏)によって築かれたといわれている。
  その後、佐久岩村田大井の庄、大井氏の親類衆が永くこの地を支配し長窪氏を名乗り、長窪の発展に尽くした。
  天文12年(1543)9月、城主であった大井貞隆は、甲斐の武田晴信(信玄)の軍に攻められこれに降り、以後長窪城は武田氏が北信濃に進出するための重要な拠点となった。
  天正10年(1582)武田氏が滅亡するとともに小県一円は真田昌幸の領地となり、天正11年(1583)昌幸が上田城を築いて輩下の武士を上田城下に集めたことなどにより、長窪城は廃城となった。

    当城と武田氏とのかかわりあいの主のものは次のようである。
天文12年(1543)9月
    武田晴信(信玄)により当城主  大井貞隆、捕われる。
    当城は、このあと信玄による東・北信濃攻めの前進基地となる。
天文17年(1548)2月
    信玄  長窪城に着陣のあと、坂城葛尾城主  村上義清を攻め、上田原合戦となる。
天文19年(1550)8月
    信玄当城に着陣し、重臣を2回にわたり、村上方の守る砥石城の偵察に出す。このあと砥石合戦となる。
天文22年(1553)8月
    信玄当城に着陣のあと、和田城、高鳥屋城、塩田城等を攻め落とす。
天正10年(1582)3月
    武田氏、滅亡する。
天正11年(1583)
    真田昌幸、上田城を築く。このころ長窪城、廃城となる。
                                                                         <現地案内板より>

長窪城

INDEX

本郭櫓台

本郭の南側にある南の郭

本郭南側(大手側)の堀切

本郭からの眺望

本郭

堀切

登城口の城址碑

 概説

南の郭から本郭方面を見上げる