苗木城
所在地 | 岐阜県中津川市苗木 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 遠山氏 |
遺構 | 曲輪・石垣・風吹門門扉・井戸・池 |
指定・選定 | 国指定史跡・続日本100名城 |
訪城年月日 | 2012年10月16日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(中腹の竹門跡まで) |
苗木城跡遠望
〜木曽川城山大橋より〜
苗木城
天守跡
〜この巨石の上に地上2階 地下1階の天守が建っていた〜
坂下門跡
綿蔵門(わたくらもん)跡
〜門の名の由来は、年貢として納められた真綿(まわた)が
門の2階に保管されていたことからきている〜
的場跡
〜藩主屋敷の隣に的場(弓の練習場)があった〜
二の丸跡
二の丸跡
〜藩主の屋敷や書院などが建ち並んでいた。奥部には藩主
屋敷の礎石が残る〜
大門(おおもん)跡
〜城内で最も大きな門なので大門という。二の丸と三の丸の
境の門で、大門の向こうが二の丸である〜
風吹門跡
〜三の丸への入口(大手門)で、門扉は現存し、苗木遠山
史料館に展示されている〜
大矢倉跡上部
〜ここに3階建ての大矢倉(倉庫)が建っていた〜
足軽長屋跡
大矢倉跡
三の丸跡にある大矢倉跡
〜巨石を利用した見事な石垣である〜
竹門跡
苗木遠山史料館前にある縄張図
苗木城は別名、高森城・霞ヶ城・赤壁城とも呼ばれる。
中世の恵北地方は恵那郡苗木郷、遠山苗木氏は植苗木(福岡)に居城を構えた。戦国時代(一説に1526(大永6)年)、遠山昌利(一雲入道)が高森山に築城し、その子遠山景徳(景長とも)が移った。(景徳の養子正廉が天文年中に築城したという説もある)植苗木は飛騨への要路だったが、応仁の乱(1467〜77)以降は信濃からの侵入に備える必要から、木曽川沿いの高森山が要塞には絶好の地として選ばれたようである。
正廉に次いで遠山直廉は岩村の遠山景任(実兄)と兄弟で武田信玄に与したが1572(元亀3)年に病死し、苗木氏は絶えた。信玄に対し、美濃を制するため織田信長は飯場(飯羽間)城の遠山友勝(別系)を苗木城へ移し、信玄に備えた。
友勝・友忠・友政の時代は織田信長と近かったが、信長の死後(1582)、遠山氏は秀吉に従わず、金山(兼山)の森長可に追われ、苗木城を離れて家康に従った。苗木城は森氏の城代林新右衛門・関治兵衛を経て、18年後の関ヶ原合戦(1600年)に遠山友政が徳川家康の命で苗木城を奪回した。その功で遠山友政は苗木領10、521石の大名となり、加えて裏木曽3ヶ村を預かった。(のち500石を上知され10、021石に)
城山の石垣の古くは友政の時代のものだが、1718(享保3)年の大地震で、石垣18ヶ所が破損したので、大きく修復し、現在見られる石組みとなった。
苗木城は高森山山頂(432m)に天守3層があり、千石井戸から下が二の丸、そして大門を境に大矢倉がある広場が三の丸と云われる。二の丸の右手に下ると、藩主住居・書院(藩士集合)などがあり、三の丸は大矢倉始め馬小屋や作業小屋が並ぶ。
江戸時代、苗木遠山氏は他国へ転封されることなく、12代遠山友禄まで続いた。このこと自体珍しく、さらに幕末全国に1万石大名は53を数えるが、みな陣屋居住で、城持ち大名は苗木氏のみだった。また外様で小藩だが、遠山友禄は幕府重役(若年寄)に任ぜられ、激動の幕末を幕府中枢で働いた。
明治維新では、藩士青山景通(平田門人)が明治政府の神祇官幹部に登用されたこともあり、大きな藩政改革(苗木騒動とも呼ぶ事件も)を行った。
改革の中で苗木城も1871(明治4)年には解体された。
苗木城跡は戦国時代の帯曲輪跡もうかがえる山城として評価される。戦後、昭和39年に岐阜県史跡になり、昭和56年には国史跡に認定された。
<苗木城パンフレットより>
苗木城
天守台(展望台)
玄関口門
〜天守へ続く最後の門である〜
武器蔵跡(本丸跡)
本丸口門跡
〜ここから先が本丸である〜
菱櫓門跡
二の丸南側にあった物見矢倉跡
〜徒士具足蔵と物置の2つの部屋があった〜
二の丸南側にあった不明門(あかずのもん)
御朱印蔵跡
〜将軍家から与えられた領地目録や朱印状など重要な文書
や刀剣類が納められていた。蔵は石垣の上にあり、はしごで
昇り降りしていた〜
牢屋跡
三の丸跡
竹門跡(登城口)
〜門手前の駐車場に車を停めここから登城する〜
天守台からの眺望
〜中央に流れる川は木曽川〜
駈門跡
三の丸東側にある駈門(かけもん)跡