宮尾城
所在地 | 広島県廿日市市宮島町 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 毛利氏 |
遺構 | 曲輪・堀切 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2019年3月27日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
厳島神社大鳥居
厳島神社
~推古元年(593年)創建と伝わる~
階段を登って行く
登城口
~食堂背後の小山(要害山)が城跡になる。フェリー乗り場
とは目と鼻の先である~
堀切
厳島合戦図(厳島合戦案内板)
宮尾城
1551年(天文20年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった、毛利元就は1553年(天文22年)晴賢に対し挙兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であったため、奇襲の一計を案じた。
平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め1555年(弘治元年)5月、島の宮尾に城を築き、陶の2万余の大軍をおびき寄せた。
同年9月30日、元就は3千5百の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌10月1日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。これに加え大鳥居側の海から元就の三男、小早川隆景の軍と宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。晴賢はわずかな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世に言う厳島合戦である。
この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に務め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。
<厳島合戦案内板(フェリー乗り場前)より>
塔の岡から城跡を望む
五重塔
~応永14年(1407)に建立された。五重塔が建つ塔の岡に
陶晴賢が陣を構えた~
本丸跡からの眺望
~五重塔が建っている場所は「塔の岡」と呼ばれ、厳島合戦で陶晴賢が陣を構えた場所といわれる~
二の丸跡に建つ今伊勢神社
本丸跡
本丸跡
二の丸跡
登り始めて程なく分かれ道に出くわす。どちらからでも行ける
が、左方の道から行くと堀切の前を通ることができる。
南側登城口
~山の南側にも登城口があり、こちらは今伊勢神社の
表参道になっている~
南側から城跡を望む
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