宮森城
所在地 | 福島県二本松市小浜上館 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 大河内修理・大内定綱・伊達輝宗・白石宗実 |
遺構 | 曲輪・石垣・土塁 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2018年4月20日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(模擬城門手前まで) |
神社脇に建つ大内氏城趾の碑
主郭下の腰曲輪にある石積
階段の上が主郭で神社が建っている
主郭下にある腰曲輪
登城道から主郭方面を望む
登城口
宮森城
神社前に建つ宮森城趾の碑
応永3(1396)年、宇都宮氏広が奥州管領に任ぜられこの地に築城し、四本松城と称した。その後文明3(1471)年、大河内修理が城を修築して宮森城と改めた。天正8(1580)年、大内定綱がこの城に移り東安達(塩松)地方を治めたが同13(1585)年9月、伊達政宗との戦闘に敗れ会津に逃れる。政宗の父輝宗がここに在陣したが同年10月8日、和議お礼のため訪れた二本松城主畠山義継に拉致され、阿武隈河畔粟ノ須で最期をとげる事件の発生したのがこの宮森城である。
<現地案内板より>
主郭に建つ矢取八幡神社
主郭に建つ矢取八幡神社
登城口に建つ模擬城門
畠山義継主従陣没碑
粟ノ須古戦場
〜宮森城で畠山義継に拉致された伊達輝宗はこの地で非業の最期
を遂げた。現場は阿武隈河畔と伝えられるが、阿武隈川からは1km
以上離れている〜
腹切石
〜永禄12年(1569)、宮森城が大内氏らに攻められ落城した際、
城主大河内備中の甥・宗四郎はこの石の上で切腹したという〜
宮森城北方の道路沿いにある腹切石
御膳清水の説明板
登城口手前にある「御膳清水」
〜歴代城主の御用水であったという〜
神社裏にある土塁
主郭(南側)
しおのまつ
主郭には礎石や庭石と思しき石が点在している
主郭(北側)