箕輪城
所在地 | 群馬県高崎市箕郷町西明屋・東明屋 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 長野業正・北条氏邦・井伊直政 |
遺構 | 曲輪・石垣・空堀・土塁・井戸 |
指定・選定 | 国指定史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | 2015年10月23日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(東側搦手口まで) |
木俣
〜通路が二俣、三俣のように5つの方向に分かれるのを
木俣といい、ここがその形をしている〜
三の丸門跡と石垣
三の丸石垣
本丸跡
〜「箕輪城まつり」を2日後に控えていたため、その準備が
行われていた〜
本丸門馬出し
二の丸跡
搦手口から入りほどなくすると二の丸跡に着く
東側の搦手口
〜長野氏時代から北条氏時代まではここが大手口であった〜
歴史
箕輪城は、明応、永正年間(1492〜1521)に長野尚業(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。
長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山の内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。
特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555〜8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦いぬいたすぐれた戦術と
領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。
業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り将兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主業盛は
春風にうめも桜も散りはてて
名のみぞ残る箕輪の山里
という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は60余年でる。
武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が
城主となり、城を大改修した。
天正18(1590)年、北条氏滅亡後徳川家康は、重臣井伊直政を12万石でここに封して関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後、
慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。
構造
箕輪城跡の標高は270メートル、面積は47ヘクタールに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼、東と北
とは水堀を回らして守りを固めている。
城は深さ十数メートルに及ぶ大堀切で南北に二分され、さらに西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置
されている。
御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸や祭戸堰用水によって城の用水は完備していた。殊に法峯寺郭は、江戸時代の兵書
「手鑑」にも引用されているほどにすぐれた用水である。
六ヶ所の「馬出し」や、櫓あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。
<現地案内板より>
箕輪城
新曲輪にある丸馬出
新曲輪
稲荷曲輪
蔵屋敷跡
本丸西側の空堀
三の丸跡
本丸西側の切岸
御前曲輪西石垣
御前曲輪井戸(昭和2年発見)
御前曲輪
〜本丸の「詰め」にあたり、落城の際、長野業盛以下が自刃
した持仏堂があったと伝えられる〜
本丸と御前曲輪の間の空堀
二の丸跡にある長野氏時代の復元想像図
〜この頃の大手は今の搦手にあったといわれている〜
二の丸と三の丸の間の空堀
鍛冶曲輪石垣
鍛冶曲輪
〜ここで武具などを作製・修理した〜
御前曲輪北堀
本丸跡
本丸門脇にある城址碑と説明文
本丸門跡