松江城

 所在地  島根県松江市殿町
 形式  平山城
 主な城主  堀尾忠氏・京極忠高・松平直政
 遺構  天守閣・石垣・堀・井戸
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日   @1982年7月
 A2015年4月16日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C D 

内濠

    本丸北西隅にある乾櫓跡
〜本丸には6基の櫓が建っていた〜

馬洗池

本丸西隅にある鉄砲櫓跡

        本丸東隅にある祈祷櫓跡
〜毎月この櫓で松江城の安全祈祷を行ったという〜

松江城は別名「千鳥城」と呼ばれる

天守から本丸を見下ろす

          二之丸上ノ段 御書院跡
〜松平家2代藩主綱隆の時まで藩主の居館であった。現在
は松江神社が建ち、堀尾吉晴や松平直政らを祀っている〜

二之丸上ノ段 御広間跡

  堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴とする説もある)は慶長5年(1600)出雲・隠岐両国24万石(23万5千石とする説もある)を与えられ、広瀬の富田城に入城した。
  しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下街を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。
  築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西360m、南北560mあり、周囲に幅20〜30mの内濠をめぐらす。
  標高28.1mの頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6か所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。天守は本丸の東北隅に築かれている。二之丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。本丸の東側の平地は二之丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
  その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。城山の南には三之丸(今の県庁附近)があり藩主の御殿があった。
  石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
  城主は堀尾氏、京極氏と続くが、いずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が10代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えた。
  明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇請により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守としてその威風堂々たる威容を今も宍道湖畔に映し出している。

                                                                         <現地案内板より>

松江城

INDEX

          三之丸跡
〜三之丸跡には島根県庁が建っている〜

南側の登城口に架かる千鳥橋

本丸南東隅にある武具櫓跡

本丸北ノ門跡

北側枡形虎口(後方に天守)

北側枡形虎口

北側枡形虎口

中曲輪石垣

本丸南隅にある弓櫓跡

天守内部(最上階)

二之丸から見た天守

現存天守(国宝)

二之丸南櫓(平成12年復元)

二之丸中櫓(平成13年復元)

       三ノ門跡
〜ここから二之丸(上ノ段)へ〜

             二之丸下ノ段
〜東西100m、南北210mの広大な平地で、往時は多くの
米蔵が建ち並んでいた〜

大手口に建つ堀尾吉晴の像

大手門跡

本丸跡にある縄張図

 概説

天守(西側より)

本丸跡

  一ノ門と多聞櫓(ともに再建)
〜一ノ門を抜けると本丸に至る〜

二之丸太鼓櫓(石垣上)

二之丸太鼓櫓(平成13年復元)

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