郡山城
所在地 | 広島県安芸高田市吉田町吉田 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 毛利元就・輝元 |
遺構 | 曲輪・石垣・土塁・堀切・井戸 |
指定・選定 | 国指定史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | 2012年10月2日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可 |
本丸櫓台上
〜郡山城の最高所にあたる〜
釜屋の壇跡
〜炊事場があった場所である〜
毛利興元(元就の兄)の墓
毛利元就墓所
〜石段を登りきった右手にある〜
歴史民俗博物館前にある案内図
郡山城は、南北朝時代の建武3年(1336年)毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城であった。
郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は約1km四方に広がる。
遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁の跡が見られる。
天文9年(1540年)9月、尼子晴久が3万の大軍を率いて来攻したが、毛利軍は小勢ながらよく戦い、翌年1月尼子軍を敗退させた。
その後、毛利氏は、この城を本拠として、中四国、北九州にまで勢力をのばした。
天正19年(1591年)輝元の広島城移城後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められた。
郡山城は、中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡である。
<現地案内板より>
郡山城
満願寺跡
〜満願寺は三の丸の西南にあり、毛利氏が入城する以前から
あった寺で、毛利氏の移城に伴い、広島→萩へと移り、現在は
防府市にある〜
尾崎丸跡
〜「尾崎殿」と呼ばれた毛利隆元の居館があった〜
郡山城跡遠望
満願寺跡には蓮池の跡が残っている
勢溜(せだまり)の壇跡
〜兵舎があった場所である〜
本丸奥にある櫓台
本丸跡
二の丸跡
散乱する三の丸石垣
〜郡山城の石垣は江戸時代に入ってから破壊された〜
三の丸跡
〜城内最大の曲輪である〜
厩の壇跡
〜馬舎があった場所である〜
姫の丸壇跡
釣井の壇にある石組井戸(直径2.5m)
釣井の壇跡
御蔵屋敷跡は石塁の石が散乱している
毛利元就の墓
山麓にある毛利隆元の墓
御里屋敷跡(山麓の居館跡)
〜現在は安芸高田少年自然の家が建つ〜
山麓の御里屋敷跡に建つ毛利元就像
山麓にある歴史民俗博物館
山麓にある内堀(薬研堀)跡
三の丸跡
御蔵屋敷跡
〜兵糧蔵があった場所である〜
元就の墓から本丸に向かう途中で見える景色
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