このすみやま

此隅山城

 所在地  兵庫県豊岡市出石町宮内
 形式  山城
 主な城主  山名持豊(宗全)・祐豊
 遺構  曲輪・堀切・切岸
 指定・選定  国指定史跡
 訪城年月日  2010年6月6日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A  C D E
 車での登城  不可

二の郭跡

主郭跡からの眺望

主郭跡

主郭跡(山頂)

山道は急で滑りやすく、ロープを伝わないと危険

登山口、車は路上に駐車

此隅山城

  山名氏は、室町幕府において侍所の長官に任ぜられる最も有力な大名の一人で、明徳の乱、応仁の乱の中心勢力として関与した。但馬は南北朝の初期以来山名氏の根拠地であり、南北朝期後半以降戦国期まで一貫して山名氏が守護の地位にあった。この山名氏の本国但馬における本城が此隅山城である。
  標高140mの此隅山山頂に長さ50m、幅10mの主郭を設け、これを中心に四方にのびる尾根上に削平による平坦地(くるわ)を多数設けている。石垣などを用いない、中世の山城の様相をよく残している。
  文中年間(1372〜74)ころ山名師義により築城されたといわれている。山麓には宗鏡寺、願成寺、大手門、御屋敷などの地名が残り、かって城下町が存在していたことを伝えている。また出石神社や総持寺にも山名に関する書状などが残っている。しかし永禄12年(1569)と天正8年(1580)に天下統一をねらう木下秀吉らの織田軍が但馬に進攻し、此隅山城は廃城となった。

                                                                         <現地案内板より>

INDEX

此隅山遠景

主郭と二の郭とを区切る堀切

 概説

縄張図(山麓にある案内板より)