甲府城

| 所在地 | 山梨県甲府市丸の内 |
| 形式 | 平山城 |
| 主な城主 | 徳川氏 |
| 遺構 | 曲輪・石垣・堀・井戸 |
| 指定・選定 | 国指定史跡・日本100名城 |
| 訪城年月日 | @2000年3月18日 |
| A2026年4月19日 | |
| 満足度 | A B C D E |
| 登城難易度 | A B C D E |
坂下門跡
〜鍛冶曲輪と天守曲輪・二の丸を繋ぐ門である〜




天守曲輪下の石垣
天守曲輪下の石垣


二の丸から本丸に至る階段
内松陰門(うちまつかげもん)
〜二の丸と屋形曲輪を繋ぐ門で、平成11年に復元された〜






中の門跡


鉄門
稲荷曲輪の井戸









本丸跡

本丸櫓跡

稲荷曲輪から本丸へ






舞鶴城公園案内図



甲府城は、天正10年(1582)の武田家の滅亡後、まず豊臣秀吉政権下で建築が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰を経て、慶長5年(1600)
頃に浅野長政(五奉行)により完成したと考えられています。発掘調査では金箔瓦や浅野家の家紋瓦などが発見されています。
関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家
一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永元年(1704)以降には、柳沢吉保・吉里親子が城主となり、この時期に甲府城下町も大きく
発展しました。柳沢氏が大和郡山(奈良県)へ移封された後は甲府勤番制となり、ふたたび幕府の直轄地となりました。
このように豊臣政権下では重臣浅野長政・幸長親子らが甲斐国の支配を任され、また江戸時代の大半が徳川家直轄領であったことからも、
ここ山梨が長野、静岡、関東をつなぐ要所であったことがわかります。
明治維新後は廃城となり、建物が取り壊される一方、勧業試験場および葡萄酒醸造所などが設置され、また城域北部では中央線敷設による
解体など甲府城は本来の姿を変えていきました。一方で保護・保存の動きもあらわれ、大正6年(1917)には甲府市在住の村松甚蔵氏の尽力
によって国からの払い下げを受け、県有地となりました。戦後は市街地復興に併せて整備が進められ、昭和39年に都市公園「舞鶴城公園」、
昭和43年には県の指定史跡「甲府城跡」となりました。
<現地案内板より>
公園入口
〜5箇所ある公園入口の内、甲府駅から最も近い入口である〜
甲府城
山手(やまのて)門
〜山手渡櫓門と併せて山手御門と呼ばれ、
平成19年に復元された〜
山手(やまのて)渡櫓門
〜甲府城に3つあった出入口の1つで、本丸などがある
舞鶴城公園とは線路で分断されている〜
内松陰門
二の丸跡
〜武道場である「武徳殿」が建っている〜
本丸にある天守台
天守台(天守曲輪より)
鉄門(くろがねもん)
〜天守曲輪から本丸に通じる本丸南側の門で、
平成24年に復元された〜
天守台より甲府市街を望む(山脈の後方に富士山)
稲荷曲輪の石垣
天守台入口
天守台
天守台
本丸石垣
稲荷曲輪
稲荷曲輪に設置されている案内板と城址碑
稲荷曲輪を経て本丸に至る道である
稲荷曲輪下の石垣
稲荷櫓
本丸下の石垣
天守台上部
天守台穴蔵


稲荷櫓
稲荷曲輪に建つ稲荷櫓(平成16年復元)