北ノ庄城
所在地 | 福井県福井市中央 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 柴田勝家 |
遺構 | なし |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | @2001年5月5日 |
A2015年8月17日 | |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
発掘された北ノ庄城の石垣の一部
柴田勝家・お市の方の墓
〜城跡西方(福井市左内町)の西光寺保育園内にある〜
復元された北ノ庄城の堀跡
神社内に建つお市の方の像
織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正3年(1575)8月に越前49万石を柴田勝家に与えた。勝家は足羽川と吉野川との合流点に北ノ庄城を構築した。現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。
天正9年(1581)4月、北ノ庄を訪ねて来た、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国あての書簡の中に「此の城は甚だ立派で、今、大きな工事をして居り、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである・・・・」と報告している。
また、羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、その戦況を小早川隆景に報じた天正11年5月15日付の書簡の中では、北ノ庄城について「城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候・・・・」と記しており、九層の壮大な天守閣であったことが知られる。
勝家はまちづくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺・民家等を北ノ庄へ移転させるなどに努めた。足羽川に架かる橋
(九十九橋)を半石半木の橋に架設したと言われる。
柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。
<現地案内板より>
北ノ庄城
神社内に建つ柴田勝家像
城跡(本丸跡)は現在「柴田神社」になっている