かずらやま

葛山城

 所在地  静岡県裾野市葛山
 形式  山城
 主な城主  葛山氏元・信貞
 遺構  曲輪・堀切・竪堀・土塁
 指定・選定  市指定史跡
 訪城年月日   2020年11月12日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B  D E
 車での登城  不可

葛山館説明板(拡大可)

畝状横堀(二の丸背後)

大手曲輪

       城跡遠望
〜麓に仙年寺が見えている〜

仙年寺(葛山氏菩提寺)

山麓の仙年寺裏手にも登城口があり、
ここには城主葛山氏の墓所がある。

本丸跡

本丸跡

二の丸虎口

一号堀(上から)

  葛山城は鎌倉・室町・戦国期を通じて、駿東一帯に勢力を持った葛山氏の本拠地である。
  この地には、葛山氏が平時居住した館跡と、戦闘に備えて築城した城跡があり、中世城郭の形態を明確に知ることができる数少ない貴重な
史跡である。
  城の構造は、主郭(本丸)二の曲輪、東曲輪、西曲輪、大手曲輪とその他の小郭群、堀切から成り、山頂部を階段状に平らに削って主郭を
中央に設け、左右に曲輪を配している並郭式の山城である。
  葛山氏は藤原鎌足の流れをくむ、藤原道隆の子伊周を祖とし、惟康の次男親康が大森に住んでいたので大森氏を名乗り、惟康の三男惟兼
が葛山に住んでいたので葛山氏を名乗ったとされる。
  戦国期葛山は氏堯・氏広・氏元と三代続き、天文初年頃(1532頃)氏広・氏元は駿府で公家と交流し歌を詠んだことが、当時今川氏と関係
の深かった冷泉為和の歌集「為和卿集」にその様子をうかがい知ることができる。
  また、墓所の玉垣と門扉は江戸時代末期のもので、門扉には丸に武田菱が刻まれている。葛山氏の墓に武田の紋があるのは不自然である
が、葛山氏の最後の領主は武田信玄の六男信貞とされ、武田氏滅亡の天正10年(1582)小山田信茂とともに甲斐善光寺で最後を迎えること
になり、法号陽春院瑞香浄英という。その供養の意味をこめて造ったものと思われる。
                                                      
                    <現地案内板より>

葛山城

INDEX

葛山館跡前から城跡方面を望む

葛山館土塁

葛山館跡

葛山館跡(葛山氏平時の居館跡)

本丸土塁(本丸北辺)

二の丸土塁

二の丸跡

二の丸跡

二の丸虎口

帯曲輪

西曲輪

西の堀切 六号堀

西の堀切 五号堀

四号堀(竪堀)

三号堀(竪堀)

竪堀(東の堀切下)

二号堀(上から)

二号堀(上から)

東の堀切 二号堀

東の堀切 一号堀

東曲輪

大手口(左へ)

大手口に設置された案内図

 概説

葛山氏代々の墓

葛山氏墓所

大手道分岐点(東の堀切付近)

大手口