金ヶ崎城・天筒山城
所在地 | 福井県敦賀市金ヶ崎町 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 朝倉氏 |
遺構 | 曲輪・堀切 |
指定・選定 | 金ヶ崎城=国指定史跡 天筒山城=なし |
訪城年月日 | 2001年5月6日 |
満足度 | 金ヶ崎城=C 天筒山城=E |
登城難易度 | 金ヶ崎城=C 天筒山城=A |
車での登城 | どちらも不可 |
月見御殿(主郭)跡
二の木戸跡
金ヶ崎城は「大平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。
南北朝時代の延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏治の居城であった
ここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い翌2年3月6日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。
戦国時代の元亀元年(1570年)4月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起して徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り殿(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。また
この殿(しんがり)での危機を救ったのは家康で、後の天正14年(1586)家康上洛にあたり、秀吉は金ヶ崎での戦いの救援に謝意を表したとされている。すでに15、6年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎の戦いはその後の2人の関係に大きな影響を与えたと
いえる。
現在は3つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。また、最高地(86メートル)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎古城跡の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。ここからの眺めは素晴らしく天候がよければ越前海岸まで望むことが出来る。
中腹には金崎宮が創建されていて毎年境内の桜が咲くころ桜の小枝を交換して幸福を願う全国的にも大変珍しい「花換祭」が開催されて
いる。
<現地案内板より>
金ヶ崎城
天筒山城跡から敦賀市街地・敦賀湾を望む
天筒山城跡から金ヶ崎城跡を望む
一の木戸跡
三の木戸跡
金ヶ崎城の支城である天筒山城跡(天筒山山頂)
〜金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっている〜
本丸跡に建つ「金ヶ崎古戦場」の碑