鎌刃城
切り通し
所在地 | 滋賀県米原市番場 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 堀秀村 |
遺構 | 曲輪・石垣・土塁・堀切・竪堀 |
指定・選定 | 国指定史跡・続日本100名城 |
訪城年月日 | 2006年5月3日 |
2016年5月5日 | |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(米原工業団地奥から林道あり) |
西郭群の曲輪
西郭群の曲輪
〜副郭から西方に向けて西郭群が続いている。西郭へは
歩道がなく、備え付けのロープにつかまりながら急斜面を
降りていく〜
大堀切(上から)
城跡北端にある大堀切(平面から)
林道へ↑
北郭群北端にある枡形虎口(大手虎口)
〜こちらが大手口であり、徒歩で登山してきた場合は
ここから入城する〜
北郭にある細長い曲輪
←北郭群
←西郭群
北郭に建造されている「物見やぐら」
主郭から北方に向けて階段状に曲輪が連続している(上から撮影)
主郭石垣
〜主郭の周囲は石垣で固められている〜
主郭枡形虎口
主郭枡形虎口
主郭跡
堀切
7つ堀切
登城口(城跡南端側)
〜米原工業団地奥から林道に入り、約6km走った所
(峠付近)に登城口がある〜
鎌刃城縄張図(登山口付近にある案内板より)
副郭
主郭
枡形虎口
大石垣
鎌刃城は鎌倉時代に箕浦庄の地頭であった土肥氏の居城として築城されたと伝えられています。しかし城跡は番場の村から離れた山中に立地しており、在地支配の城ではなく、軍事的な目的のためにのみ築かれた城のようです。おそらく土肥氏は番場に今も残る「殿屋敷」に居館を構えていたのでしょう。
鎌刃城は江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから、「境目の城」として室町時代に築城されたと考えられます。文献からも文明4年(1472)以降に登場し、六角氏方の今井氏が、京極氏方の堀氏の守備する鎌刃城を攻めたことや、堀氏が後に六角氏方に降り、再入城したことなどが知られています。
堀氏は元亀元年(1570)、同族の樋口氏とともに織田信長に降り、翌年5月6日には浅井長政に攻められています。この時横山城(長浜市)を守備していた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が応援に駆け付け、長政軍を撃退したことが『信長公記』に記されています。
城跡の規模は県内でも有数のものであり、当城が「境目の城」として重要視されていたことがうかがえます。城跡の周囲は鎌刃の名前どおり急斜面となり、南東尾根続きには七条にのぼる堀切りを設けています。主郭は石垣によって構成されており、虎口は枡形となっています。北東尾根上の削平地群には石段を持つ、みごとな内枡形虎口が認められます。また西側尾根上の削平地群先端には近江では数少ない畝状竪堀群も認められます。こうした遺構は戦国時代末期の特徴をよく示しており、元亀年間の織田軍門下時代に築かれた遺構であろうと考えられます。
なお城跡南東にある清竜滝付近には水の手と伝えられる岩盤をくり抜いて作られた石樋も現存しています。
<現地案内板より>
鎌刃城
鎌刃城跡遠望
城跡南東を流れる清竜の滝
〜滝の上には水の手があった〜
大石垣
北郭から少し下に降りた所にある「大石垣」
大櫓跡からの眺望
大櫓跡
〜大櫓は地下室もある重層建物であった〜
北郭群北端にある大櫓跡
主郭から北方に向けて階段状に曲輪が連続している(下から撮影)
枡形虎口
北郭群北端にある曲輪
大櫓跡
畝状竪堀
北郭に残る「小石垣」
主郭枡形虎口
主郭跡
副郭石垣
副郭跡
城跡南端(搦手)にある「切り通し」
〜この場所は番場から武奈(ぶな)へ抜ける幹道の切り通しで、
堀切としても利用されていた〜
大堀切
堀切
〜切り通しのある場所から副郭にかけては7条の堀切
があり、非常に進みにくい地形になっている〜