加古川城
所在地 | 兵庫県加古川市加古川町本町(称名寺) |
形式 | 平城 |
主な城主 | 糟谷武則 |
遺構 | なし |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2014年12月28日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
城跡には説明板が建っているだけで遺構は何もない
加古川城
加古川城は鎌倉時代に糟谷有教によって築かれたという。
現在城跡には称名寺が建っている。
真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。寺の付近一帯は加古川城跡です。天正5年(1577)加古川城で加古川評定(信長軍と毛利軍が戦うきっかけとなった会議)が行われました。また、糟谷(内善正)武則(12代加古川城主)は、黒田官兵衛の推挙により羽柴秀吉に仕え、三木合戦においては箕谷ノ上付城(三谷ノ上付城)に布陣して活躍したとされています。また境内には地人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の七騎供養塔があります。これは南北朝時代、出雲守塩冶高貞が加古川で追手に襲われた際、主君を守ろうとして奮死した従臣7名を供養するため建てられたものです。後に塩冶高貞は、人形浄瑠璃等の代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する塩冶判官のモデルとして取り上げられ、忠義話として紹介されました。山門を入るといちょうの大木があり、このいちょうの木は昔から加古川の町の目印でした。
<現地称名寺案内板より>